紫式部の墓の謎~何故、紫式部は地獄に落ちたと思われたのか~
今でも読み継がれる平安時代の名作「源氏物語」、世界最古の長編恋愛小説と呼ばれたりします。
その作者、紫式部は現代人も知らない人はいないくらい、有名な歴史上の人物ですね、
2024年の大河ドラマの主役にもなっています。
しかし、その墓がどこにあるのかといったことはあまり知られていないのではないでしょうか?
実は紫式部の墓にまつわる興味深い話があるのです。
まず、紫式部の墓とはどこにあるのでしょうか?見ていきましょう。
紫式部の墓はどこにある?
紫式部の墓は京都府京都市北区紫野西御所田町の片隅にひっそりと建っています。
工場に隣接していて、その一部のようにも思えるのですが、
普通に一般人も入って、お墓参りすることができます。
紫式部の墓がある場所はもともと、淳和天皇の離宮があって晩年、紫式部が住んでいた場所だそうです。
この場所が墓所だというのは、14世紀成立の源氏物語の注釈書「河海抄」(四辻善成・著)に出てくるそうです。
現在も紫式部顕彰会の人たちによって整備されています。
ところで、実際に参ってみると式部の墓の横に別のお墓があることに気付きます。
一緒に建てられているのだから親族の墓なのか?という気もしますが、
実はその墓は全然、血のつながりのない人の墓なのです。
(霊園とかなら不思議でもないですが)どうして、別の人と並んで墓が建てられているのでしょうか、
「その墓が誰の墓なのか」、というのがわかるととても興味深いことがわかってくるのです。
小野篁の墓の横に建てられている謎
紫式部の墓の横に、建てられている墓は小野篁のものです。
小野篁(たかむら)という人をご存じでしょうか?
高校の歴史の教科書にはあまり出てこないので一般には知られていないかもしれません、
しかし、平安時代では有名人でした。
どういう形で有名だったのかというと、それは”地獄で働いている”といううわさで有名だったのです。
小野篁は平安時代初期の公卿です。
公卿とは・・ 公家の中でも偉い方の職位で、具体的には太政大臣、左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議らを指します。
小倉百人一首にも参議篁として一首、採用されています。
小野篁は当時のスーパーマン的な人で、明法道※をよくして「令義解(りょうぎのげ)」※の編纂にも深くかかわりました。
詩人としてもすぐれていて、「経国集」などにその詩が伝わっています。唐代の詩人、白居易と比べられることもあったくらいだそうです。
参議なので相当なエリートなのですが、無私無欲な人であまり裕福ではなかったそうです。
自身が亡くなる際にも、他人に知らせず、すぐ葬儀をすますようにと息子たちに言ったと伝わっています。
令義解とは・・ 天長10年(833年)に淳和天皇の勅で右大臣、清原夏野らによって撰集された律令の解説書、 律令とは、大宝律令や養老律令。 明法道とは・・ 昔の日本で、律令制の中での大学寮における律令法の学科、今の法律学みたいなものです。
そんな小野篁なのですが、平安時代からある伝説がありました。
それは、閻魔大王の部下として地獄で働いている、というようなものです。
この伝説は、「江談抄」(大江匡房・著)や「今昔物語集」(作者不明)などに出てきます。
地獄で閻魔大王の部下として、裁判の補佐を行っていたというのです。
そこで、亡くなった人が地獄でいい処遇になるように口利きをしてくれると考えられていたようです。
具体的な話として、亡くなった人を生き返らせたりした話が伝わっています。
江談抄には藤原高藤という人物をよみがえらせたという話が載っています。
また、藤原良相という人物も(話の中で)蘇生を果たしています。
冥界との連絡には、六道珍皇寺(りくどうちんのうじ)にある井戸を使ったとされています。
この井戸は近年発見され、「黄泉がえりの井戸」と呼ばれ、観光スポットとなっています。
つまり小野篁は地獄にて、この世の人がいい処遇になるようにしてくれる
守り神のように考えられていたのですね。
そしてそのことが、紫式部の墓の隣に小野篁の墓があるとても強力な理由となっているのです。
そうです、当時の人々は紫式部が地獄にて救われるように、篁に願ったのです。
しかし、どうして当時の人々は紫式部が地獄へ落ちたと思ったのでしょうか?
それは「源氏物語」という物語の内容に秘密がありました。
「源氏物語」の虚構と色欲は当時の考えでは罪だった?
源氏物語は作り話です。
古代の神話なども現代人からすれば作り話のような気もしますが、当時の人々は真実と
とらえていたのだと思います。
しかし、源氏物語ははっきりとした虚構(フィクション)でした。
そしてその内容は男女の愛欲を描くものでした。
源氏物語の簡単なあらすじは、主人公の光源氏がいろいろな女性と恋を繰り広げ、出世していくというような物語です。
この虚構と愛欲が当時の仏教的な考え方からするとタブーだったのですね。
なので、当時の人々は紫式部が死後、地獄に落ちてしまったのでは?
と考えたのだと思います。
しかし、紫式部は人々を幸せにする傑作を世に残しました。
そんな紫式部の冥福を祈って、小野篁の墓の横に紫式部の墓があるのだと思います。
まとめ
今回は紫式部の墓について記事にしました。
近くに住んでいる方は訪ねてみてもいいかもしれません。
お読みいただきありがとうございました。