2023年8月20日

戦国時代の天才的な戦術3選

投稿者: のんきまる

戦国時代の有名な戦、またそこで行われた天才的な戦術を3つほど紹介したいと思います。

手取川(てどりがわ)の戦い~大軍勢を破った鉄砲つぶしの策~

(決戦前)

手取川の戦いは天正5年9月23日(1577年11月3日)当時の加賀、現在の石川県で行われた織田軍と上杉軍の戦いです。

手取川付近で行われたことから手取川の戦いと言われています。

この戦いでは謙信の鉄砲破りの策がさく裂しました。

いったいどういった戦だったのか具体的な経過を見ていきましょう。

当時、能登国の守護畠山氏は七尾城に詰めていました。

その畠山氏の支配する能登を支配下に置くため上杉謙信は進軍を開始します。

しかし、堅い城だった七尾城を謙信は落とすことができません、

戦いは次の年にまで及び、その後関東のほうで北条氏の攻勢が強まったこともあり、

いったん謙信は自分の城である春日山城に引き上げました。

その後能登国内の上杉方の城が奪われるなどの事態が続き、反転を決意した謙信は再び能登に侵攻します。そのさなか、

かつてより織田信長と誼を通じていた七尾城にいる畠山氏の重臣長続連(ちょうつぐつら)は織田方に救援を要請します。

上杉方の領土拡大を望まない織田信長は能登に援軍を出すことを決定しました。

織田方は大軍勢です。総大将は柴田勝家、途中で離陣しましたが羽柴秀吉、その他滝川一益や、丹羽長秀などそうそうたるメンバーです。

しかし、そのさなか七尾城は味方の離反により落城してしまいます。

七尾城落城を知らない織田軍はそのまま進軍を続けていました。

(いざ決戦!!)

上杉謙信は手取川付近の松任城に入りました。

一方の織田軍は、手取川を渡ったところで七尾城落城と謙信の松任城入城を知ります。

撤退を命じますが上杉方に攻められ、大敗を喫してしまいました。

その後上杉謙信は能登国を平定することに成功します。

(戦術)

手取川の戦いにおいて伝えられる話をきくと、謙信の戦術の天才性がわかります。

長篠合戦でも活躍した鉄砲を用いた戦いが織田軍の特徴でした。

鉄砲は戦国時代の戦を決定的に変えたものです。これがあったから天下統一が成ったといっても過言ではないと思います。

さて、離れた位置からでも敵兵を倒せる鉄砲、これをどう破るかというところが思案のしどころです。

謙信の出した答えは夜に攻めるというものでした。

確かに相手を見て狙って撃つ鉄砲は視界の不明瞭な中では十分な効果を発揮しません。

その鉄砲の弱点を突いて謙信は攻撃をしたのですね。

しかし、当然そうすると味方も相手が敵かどうかの判断がつかなくなってしまいます。

これに関しては合言葉を作って敵か味方か判断したそうです。

結果的に謙信は大軍勢を打ち破りました。

謙信の天才的策の勝利でした。


天才的手法で城を盗った竹中半兵衛の奇策!

かつて手品のような手法で城を奪取した武将がいました。

その武将は後に天下人となった豊臣秀吉の参謀的役割を果たし、今では

天才軍師の印象で人々に記憶されています。

その武将の名は竹中半兵衛重治です。

天文13年(1544)に美濃国大野郡大御堂城主、竹中重元の子として生まれます。

長良川の戦いで初陣、何年か後に菩提山城の城主となります。

はじめは美濃国の国主、斎藤義龍(道三の息子)に仕え、その後その跡を継いだ龍興に仕えます。

劇的な城の奪取劇はこの龍興時代に起こります。

美濃は後に信長に制圧され岐阜と命名されることになりますが、このころはまだ斎藤氏が治めていました。

たびたび織田方の侵攻が繰り返される中、龍興は政務に励むことなく酒色におぼれ一部の臣のみを重用していたそうです。

そこで半兵衛は龍興を諫めるために動きます。

わずかな手勢で当時、斎藤龍興の居城だった稲葉山城に入り一気に城を奪ってしまったのです。

やり方はこうです、まず稲葉山城にいる弟の久作重矩に仮病で臥せっているように偽らせ、その看病という名目で城内に堂々と入ります。

治療用具という名目で運び込んだ長持には城を盗るための武器の類が入っていて、

それを使い一気呵成に城主龍興を追い出したのです。手勢はわずか16名ほどだったといいます。

これは今伝えられている中では最も劇的な城盗り物語ではないでしょうか。

とはいえ半年後には城を龍興に返還しているそうです。

あくまで半兵衛の目的は龍興を諫めること、そしてもう一つは仕返しの目的もあったようです。

半兵衛は華奢な見た目をしていて青ひょうたんというあだ名で龍興から呼ばれていました。

またしょんべんをひっかけられるようなこともされていたといい、そういったことも重なって、ついにことを起こしたのでしょう。

後に半兵衛は秀吉に仕え、天才的な働きで助けていくことになりますが、

半兵衛の器を見抜けなかった龍興の見る目がなかったということでしょうか。

前代未聞の壮大な作戦~備中高松城の水攻め~

備中高松城は清水宗治の城でした、切腹で有名な人ですね。

水攻めが行われたので日本三大水攻めの一つに数えられています。

水攻めとは堤などの土木工事を行い、人工的に洪水を起こす攻め方で、これをやられると

城はまったく周囲から孤立してしまうことになります。

ただ失敗することもあって、埼玉にある忍城攻めでは、堤が決壊して失敗してしまったそうです。

さて、備中高松城攻めですが、当時織田家の中で中国方面を担当していた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)はその途上にある備中高松城を攻めることになりました。

毛利輝元が足利義昭を庇護し、石山本願寺と同盟を結んだことから織田と毛利の関係は悪くなっていました。

そこで中国攻めが行われることになったんです。

備中高松につくまでに、すでに播磨と備前を平定していました。その途上の三木合戦では前述した竹中半兵衛を失うなどの苦難もありましたが、

備前の宇喜多家を味方に引き入れて約3万の軍勢で高松城に向かいます。

城を守る清水宗治は約3~5000人くらいでした。

備中高松城は湿地帯にある平山城でその守りは堅固なものでした。

何度か攻撃を仕掛けますがなかなか落とすことができません。

難攻不落の城をどうやって落とすか秀吉の思案のしどころでした。

(~水攻めへ~)

そして秀吉は世紀の大作戦、水攻めをすることに決めました。

近くに足守川という川が流れていてそれをせき止める堤を築き、巨大な湖を出現させるのです。

ちょうど季節が梅雨だったこともあり季節も味方しました。

結果、備中高松城は孤立し落城へのカウントダウンが進みます。

しかし、ここである予想外のことが起こります。

秀吉は救援を主君信長に要請していたのですが、その救援としてくるはずだった明智光秀がなんと

京都本能寺で謀反を起こし、信長を打ち取ってしまったのです。

その報が届いたとき秀吉は涙を流したといいます。

もはや落城も時間の問題という備中高松城も完全に落ちるのにはまだ時間がかかります。

しかし、秀吉は本能寺の報を聞いて急いで京に取って返す動機が生まれました。

いち早く明智光秀を打ち取りたかったのです。

そこで、どうやって今すぐ毛利と和睦を結ぶかが問題となりました。

信長が討たれたことが伝わると毛利は是が非でも和睦を結ばないかもしれません。

その報が毛利に伝わる前に和睦を結びたいわけです。

しかしなかなかスムーズにはいかない

その原因は清水宗治のことでした。

清水宗治が切腹するかで交渉が進まなかったのです。

秀吉側は宗治に腹を切らせたい、しかし毛利はそれをごねていました。

そこで秀吉軍にいた安国寺恵瓊という僧が直接、宗治に言いに行くのです。

「宗治殿が腹を切ればすべて解決しますよ。」と、

そして清水宗治は歴史に残こる見事な切腹をし、毛利と織田の和睦は成立し、

秀吉は中国大返しと呼ばれることになる移動劇を繰り広げることになります。

この時、いい働きをした安国寺恵瓊には後に国をやったそうです。

それだけ重要な働きをしたということなのでしょう。

まとめ

戦国時代の天才的戦略3選でした。