小野寺信
2023年1月9日

戦中史がわかる!太平洋戦争末期、ソ連の対日参戦を伝えたある情報将校とは?

投稿者: のんきまる
  • 小野寺信とはどんな人か
  • ソ連が対日参戦を伝えたヤルタ会談とは?
  • ポーランドと日本の絆
  • 握りつぶされてしまった情報

小野寺信とは?

太平洋戦争の終わりごろにスウェーデンのストックホルムに赴任していた陸軍の駐在武官です。

大変有能な人で、”諜報の神様””インテリジェンス・カイザー”なんて異名もあったほどです。イギリスのM16(諜報機関)にマークされていました。

すごいエピソードとして当時ドイツ最大のインテリジェンスオフィサー(情報の世界ですごい人をこういうらしい)と言われたカール・ハインツ・クレーマーと

情報交換を行っていたらしく、(これはマッカラン報告書というのに出てきます)そのクレーマーの持つ情報のほとんどがオノデラからの情報であったといわれています。

当時のスパイの情報交換はギブアンドテイクであり、クレーマーが情報交換をしていたというのはそれだけ小野寺信がドイツにとって重要な情報を持っていたということで、

スパイとしての優秀さがわかりますよね。

ドイツ語、ロシア語に堪能でヒューミント(人間関係のつながりで情報を得る技術)の達人であったといわれています。

太平洋戦争末期の情勢

太平洋戦争の終わりごろには、B-29(スーパーフォートレス)による日本の本土空襲もはじまり(初めては44年の6月16日、中国の成都から発信した63機の八幡空襲)。

確実に日本は負けているという風聞が広がっていました。

沖縄本島の地上戦(1945年3月から6月の23日)も大敗し、7月26日にポツダム宣言(無条件降伏勧告)がアメリカ、イギリス、中国から発せられ

降伏という2文字が日本の前にリアルに突きつけられていました。

ヤルタ会談とは

1945年2月の4日から11日の間に、ソ連領のクリミア半島ヤルタで行われた会談で

アメリカ、イギリス、ソ連の3か国の首脳が参加していました。

アメリカはルーズヴェルト(ニューディール政策の人)、イギリスはチャーチル(鉄のカーテンの演説の人)、ソ連はスターリン(ソ連共産党初代書記長、大粛清を行った人)らが参加しました。

この会談でヤルタ秘密協定というのが結ばれました。それはソ連の対日参戦をアメリカとイギリスが認めるというもの

ドイツの降伏後3か月たったら日本に侵攻するということで、結果的に日本は千島列島も失い、その事実は北方領土問題という形で今も重く日本の上にのしかかっています。

対日参戦に気付いた小野寺信

当時、日本はポツダム宣言の受諾に際してソ連にその仲介を頼もうと画策していました。

この動きにはスターリンは笑いが止まらなかったでしょう。スターリンにとって大事なのは領土拡張であり、

そのために日本に参戦することしか考えていなかったからです。(事実としてヤルタ密約があります。)

日本の行為は自分の敵に助けを乞うようなものであり、外交上の動きとして非常にまずいものでした。

小野寺信はストックホルムにありながら対日参戦に気付いたといいます。それはポーランドの情報筋からその事実が伝わってきたからです。

小野寺はすぐ日本に伝えたといいます。これは本当に驚くべきことなんです。

なぜなら歴史の事実として、実際にソ連は太平洋戦争の終わりごろに日本に宣戦布告し攻めてきています。

疑問に思うのはなぜ対日参戦に気付いていたのに日本はその対策をしなかったのかということなんです。

もみ消されたといってもいいのではないでしょうか。

気になるところですがその前にどうしてポーランドからこういう情報が入ってきたかというところについて記していきたいと思います。

その裏にはポーランドと日本の心温まる交わり、そしてその一報はポーランドから日本に対する最大級のお礼だったということなんです。

ポーランドと日本の関係

カサブランカに一つの墓があるそうです。それはスタンスローガノというポーランドの優秀なスパイのものでした。

当時、ソ連とナチスドイツによりポーランドは領土を取られてしまっていました。

しかし、ロンドンに亡命政府をつくり徹底抗戦を続けていました。

戦後、東側陣営に組み入れられたポーランドはソ連に気を使い、祖国のために戦ったガノの顕彰をできずに墓は忘れされれていました。

近年、ガノの墓が再発見され顕彰が進んでいるということです。

ポーランドはもともと情報に強い国でした。

エニグマというドイツの暗号をご存じでしょうか?チューリングとのからみで知っている人もいるかもしれませんが、

その初期の暗号を解読したのもポーランドの情報将官たちでした。

そんな優秀なスパイたちが戦争真っただ中の欧州で活躍していたのです。

日本人は見た目も文化もヨーロッパの国々とは違うため、その渦中に潜り込み情報を探るのは容易なことではありませんでした。

日本人が情報を探るのにポーランドの人の協力は欠かせなかったのです。

そして、ポーランドと日本の関係はそれは暖かく深いものでした。

結果的にはなかった話なのですが、ポーランドの情報組織を日本に接収するよう日本の上田陸軍武官に提案したことがそれを裏付けています。

どうして日本とポーランドのつながりができたのでしょうか?

ポーランドの孤児を救え!ビエルケビッチの願い

1919年にポーランド救済委員会を立ち上げたアンナ・ビエルケビッチ氏は1920年、日本に救援要請をしました。

それはシベリアにいる多くのポーランド人の孤児を助けてくれとの願いでした。

ポーランドはかつてロシア帝国下にあり、反乱において逮捕された大勢の人々がシベリアに送られました。

また、第一次世界大戦ではポーランドは戦場となりその際も多くのポーランド人がかの地に逃れました。

戦後、独立を果たしたポーランドでしたが、ロシア革命で祖国に帰ることが困難になり、多くの餓死者などを出していた現状がありました。

子供だけでも助けてくれと各国にお願いして回ったそうですが、手助けする国はありませんでした。

そこで藁にもすがるような思いで向かったのが日本だったそうです。

かつての日露戦争では国際法を順守する姿勢が強く、捕虜に優しかった日本。

ロシアに反感を持っていたポーランドの人々はすすんで日本に投降しました。

そのようなつながりもあり、日本は動き、ポーランド人の救出に成功したそうです。

また、日本でも有名な命のビザを発行した杉原千畝氏。

杉原千畝が発行した満州行きのビザをもって助かったユダヤの人々の中にはポーランドの人が多かったそうです。

このような関係があるのでポーランドの人々は日本に対して友好な態度で接してくれたのではないでしょうか。

ポーランドは第二次世界大戦では連合国側で、枢軸国側の日本とは本来敵対関係でした。

それでも日本を助けてくれたポーランドの人の思いに目頭が熱くなります。

ソ連はポーランドからすると因縁の国です。

ソ連の思惑のままに日本がソ連の属国になるのは見たくない・・そんな思いでソ連の対日参戦の情報は小野寺のもとに届けられたのでしょうか。

それはもしかしたら日本に対する最大級のやさしさだったのでしょう。

なぜもみ消されたのか?

小野寺のもとに届けられた情報は日本で握りつぶされたことは歴史が証明していることと思います。

ではなぜ、もみ消されたのでしょうか?

これを語るのは容易なことではありませんが。

想像の領域に入ってしまうのですが、前述したように日本は当時ソ連に仲介を頼むという方針で一致していました。

もうその方向で固まっていたので、その方向を妨げるような情報はノイズとして除去されてしまったのではないでしょうか。

心理学でいえば確証バイアスと呼ばれるようなものでしょうか。

結論ありきで事実を曲げてしまう。日本の悪癖がここでも出てしまったのですかね。

お読みいただきありがとうございました。