2023年10月1日

亡骸の行方が分かっていない歴史上の偉人3選

投稿者: のんきまる

有名な偉人でも、その晩年を知る人は少ないのではないでしょうか?

今回は、亡骸の行方が分かっていないか、謎めいている偉人を3人紹介したいと思います。

近藤勇

近藤勇は、幕末の京の治安を守った新選組の2代目局長として有名な人です。

その活躍は映画やドラマなどで描かれているので、知っている方も多いと思います。

もともと、武蔵国多摩郡の方の生まれで、天然理心流という剣術の流派の四代目宗家として

試衛館(正しくは試衛場というらしいです。)で剣を教えていました。

近藤勇

清河八郎の呼びかけで14代将軍、徳川家茂の上洛を警護する浪士組に参加します。

それで京にむかったのが新選組のきっかけです。

最初は芹沢鴨という人物が新選組の局長でしたが、性格に難があったようで粛清されます。

そして2代目局長になることになりました。

当時、京は尊王攘夷(天皇を仰いで、外国の人を敵視する。)思想をもった志士であふれていて、

とても危険な場所でした。

「天誅」と称して、要人暗殺が横行していました。

京都所司代や、京都町奉行で防ぎきれないと判断した幕府が浪士組の案を受け入れたのです。

新選組は会津藩のお預かりとなり、京の治安を守りました。

近藤勇~斬首される

さて一時期、京の志士たちを恐怖で震え上がらせた新選組でしたが、

時代はそんな志士たちの側へ傾きます。

大政奉還で徳川慶喜が幕府を終わらせると、

その後まもなく、鳥羽伏見の戦いが勃発します。

目まぐるしい時代情勢の中、新選組は甲陽鎮撫隊と名称を変えます。

甲州鎮撫を旧幕府から命ぜられたためです。

近藤勇はすでに幕臣に取り立てられていました。

そして新選組は旧幕府側で戦っていました。

戦いの中で近藤らは江戸へと帰っていましたが、再起を図ろうと

五兵衛新田という現在の足立区のあたりで兵を募集し、

会津行きを企図して、千葉の流山に集まります。

しかし、板橋まで迫っていた新政府軍側にその動きがばれ、

近藤は捕縛されてしまいます。

(越谷で出頭したという話もあります。)

そのころ、近藤は大久保という変名を名乗っていましたが、

新政府側に近藤を知るものがあり、

土佐藩の谷干城(たにたてき)の強い主張で近藤の斬首が決まります。

(谷干城は新選組が同藩の坂本龍馬を暗殺したのだと思っていたのだと思います。)

享年35歳、

その首は京の三条河原にさらされました。

かつて京の志士を首にしてきた男が三条河原で首となってしまったのです。

皮肉な話ですね。

斬首される前、近藤は首切り役の人に礼を言ったそうです。

「ながながとご厄介に相成った。」

最後まで立派な侍だったということだと思います。

首の行方

さて、三条河原で梟首された近藤勇ですが、

その首の行方はよくわかっていません。

遺体の一部は土方歳三が葬ったそうです。

その墓は旧会津、今の福島県にある天寧寺というところにあります。

首はどこへ行ったのでしょうか。

山形県に高国寺というお寺があります。

そこは近藤金太郎という人の菩提寺なのですが、

この金太郎さん近藤勇のいとこだというのです。

そしてこの金太郎さんが近藤勇の首を持ち帰り、

高国寺に埋めたのではないかという話があります。

これはきちんとした資料に基づいた話ではないので

真相は定かではないのですが、

近藤勇の首が、手厚く葬られていたというのならば

胸が熱くなる話ですね。

新選組局長、近藤勇の亡骸の行方の話でした。

織田信長

史上有名な、三英傑の一人、鳴かぬなら殺してしまえほととぎすの歌でも

有名な織田信長です。

織田信長は天正10年(1582年)に京都本能寺で明智光秀に討たれ、

自害したことで有名ですが、実は

その首はどこにあるのかわかっていません。

本能寺の変で織田信長が討たれた際、寺が焼けてしまって

焼死体が多かったので織田信長がどれなのかわからなかったからだといわれています。

そのため、本能寺の変後には、織田信長生存説も出ました。

明智光秀の謀反が失敗した一因に織田信長が本当に死んだかわからなかったことも影響していると

思われます。

織田信長とはどんな人物

織田信長は天文3年(1534年)に織田信秀の息子として

尾張国で生まれました。尾張は現在の愛知県あたりになります。

若いころは奇抜な格好をしたり、奇行などが目立ち、

尾張のおおうつけと言われました。

しかし、織田家の家督を継ぎ、尾張を統一すると、

永禄3年(1560年)に史上有名な桶狭間の戦いで

東海地方の大大名、今川義元を打ち破ります。

その後、破竹の勢いで領土の拡大を続け

美濃を攻め落とし、斎藤氏の居城であった稲葉山城を奪い

岐阜城と改めます。現在の岐阜県の名称はこの岐阜からきています。

北近江の浅井長政と結び、足利義昭を擁し上洛を果たすと、朝倉を討つため

北上しますが、

浅井の裏切りにあい、命からがら京へ逃げ帰ります。

これは金ケ崎落ちと呼ばれています。

ここから織田信長を相手とした包囲戦が勃発し

信長は全方位作戦で、各地で戦うことを余儀なくされます。

四苦八苦する中、信長を支えたのは、後に裏切る明智光秀や木下藤吉郎、

柴田勝家、滝川一益などの優秀な家臣たちでした。

絶望的な戦いの中、長篠の戦いで戦国最強の武田軍を打ち破るなど

数々の勝利をおさめ、天下布武を実現していきます。

本能寺の変で打たれた年は武田軍を降し、ほぼほぼ天下統一が完成するかと

思われた天下統一前夜のことでした。

だからこそ悲劇的な武将として人々の記憶に強く残っているのでしょう。

残酷な人との評価もありますが、革新的な戦国武将でした。

~燃える本能寺~そして、首の行方

京都市に阿弥陀寺というお寺があります。

ここに、織田信長信忠討死衆墓所という墓が建っています。

そこに信長の遺体が埋まっているというのです。

どういうことでしょうか?

実は、こちらの当時の住職、清玉上人は生前から信長と親交があり、

本能寺が焼けた際に信長の遺体を運び出し、寺の境内に埋めたというのです。

実際、本能寺の焼死体を埋葬したのは阿弥陀寺だったそうです。

こちらは伝説ですが、真実は一体どうだったのでしょうか?

また、静岡県富士宮市の西山本門寺というお寺に

信長公首塚というものがあります。

こちらも焼ける本能寺から首を持ち出して埋めたとの伝説なのですが、

京からはるか遠くの静岡県に首塚があるのは意外な話ですね。

織田信長の亡骸に関する話でした。

↓信長ゆかりの神社についての記事も書いているので良かったら読んでください♪

大塩平八郎

大塩平八郎

大塩平八郎は、陽明学の徒で江戸後期に大塩平八郎の乱という大規模な暴動を起こしたことで有名な人です。

大阪の町奉行与力という身分でありながら、民に味方して乱を起こしたので幕府に衝撃を与えました。

大塩平八郎の乱とは天保8年(1837年)に起きた幕府に対する反乱です。

大塩事件とも言います。

当時、天保の大飢饉などが起こり、世の中に貧困が広がっていました。

百姓一揆なども起こり、そんな百姓を救済するべきだと大塩平八郎は奉行所に提案しますが断られます。

仕方がなく、自らが有していた蔵書を売却するなどしてお金を作り百姓たちを助けていましたが、

幕府は変わらないばかりか、

商人たちによる米価を高めるための買い占めなども起こり、大塩たちの怒りも頂点に達しました。

大塩は檄文を近在の農民などに回し、決起を呼びかけました。

門徒たちの中には決起を思いとどまるよう言ったり、距離を取るものもいましたが大塩の意思は

変わりませんでした。

決起直前に町目付の平山助次郎が離反して、決起の内容等を敵方に知らせてしまいます。

当初、与力であった大塩の決起を信じられなかった幕府方でしたが、

やがて本当のことと分かると町奉行所にいた瀬田、小泉という決起参加者を捕縛しようと動きます。

小泉は無念にも惨殺されてしまいますが、瀬田は何とか逃げ延び、大塩邸に駆け込みます。

反乱の計画が漏れたことを知った大塩平八郎は、自邸に火をかけ、ここに大塩平八郎の乱が勃発しました。

大塩平八郎の乱の実態

大塩一党は、大坂の三井呉服店や鴻池などの豪商を襲います。

その陣容は300人ほどにも膨れ上がったといいます。

しかし、奉行所の部隊には勝てず、

乱は半日で鎮圧されてしまいます。

大塩平八郎の乱は結果、失敗に終わり、

また、大坂市中は大塩焼けといわれる火事によって

市中の5分の1が焼けてしまうという大損害を被りました。

江戸の幕閣に窮状を訴える建議書を送っていましたがそれも押収されてしまいます。

無念の中、大塩平八郎は商人美吉屋五郎兵衛の店にかくまわれましたが、

それもばれてしまい、隠れていた家を包囲されます。

大塩は観念したのか、隠れていた家に火を放ち自決します。

享年45でした。

その後、乱にかかわったものはことごとく処罰されます。

大塩のものとされる遺体もはりつけにされます。

大塩をかくまった商人美吉屋五郎兵衛も打ち首獄門にされてしまいます。

義のために立ち上がった大塩平八郎とその仲間の悲しい最後でした。

大塩平八郎生存説?

乱の後、その姿勢に賛同した各地の人々が反乱を起こします。

越後、柏崎の生田万の乱は有名です。

亡くなってもなお、その意思は人々を動かしつづけました。

さて、大塩平八郎には当時、生存説がありました。

亡くなった時の状況からして、遺体は大塩平八郎ではないのではないかという説です。

その原因には乱の処罰の吟味が1年以上かかったことも挙げられます。

大事件ということで町奉行所と江戸の評定所、2段階の吟味となったのです。

大塩を騙った打ちこわしの予告文などもあり、生存説がまことしやかにささやかれました。

しかし、市中引き回しにあった大塩の遺体を見た大塩の友人が

確かに大塩の面影があると語っていることから、

やはりはりつけになった遺体は大塩平八郎のものなのだと思います。

生存説が出るくらい尊敬されていたのかもしれませんね。

まとめ

亡骸のわかっていない歴史上の偉人3選でした。

お読みいただきありがとうございました。