2024年6月1日

一条天皇の辞世の句の謎~中宮定子と一条天皇

投稿者: のんきまる

一条天皇は、藤原氏が摂関政治を行い天下をわがものにしていた平安中期ごろの天皇です。

この時代はあまり天皇の権力が強いとは言えず、政治に翻弄された天皇ということができると思いますが、

そんな一条天皇の辞世の句を皆さんはご存じでしょうか、

今回は一条天皇の辞世の句について解説していきます。

一条天皇とは

一条天皇は980年7月15日(天元3年6月1日)に生まれ、1011年7月25日(寛弘8年6月22日)に没しました。

第66代の天皇であり、その前の前に天皇であった円融天皇の第一皇子です。

65代の花山天皇が寛和の変※1で出家してしまったため、7歳で天皇となります。

一条天皇は前述したとおり摂関期の天皇であり、政治的実権は藤原氏に握られている

ような形でした。

しかし、一方で村上天皇などの治世をめざし、藤原行成などの優秀な公卿にささえられ

有力な政治体制を敷いたとの見方もあります。

さて、そんな一条天皇ですが、その時代は紫式部の源氏物語などの平安女流文学が盛んになった時期でもあります。

日記文学とも言いますが、それらは一条天皇の周りを中心として発展したものです。

また、それらの日記文学の発展には2人の女性が関係してきます。

それは中宮定子中宮彰子です。

※1寛和の変とは・・・
花山天皇の退位に伴う政変、これを期に藤原道長の父である藤原兼家が摂政となることになる。

中宮定子と中宮彰子

源氏物語をはじめとした日記文学は天皇の後宮で営まれたサロンで生まれたという側面があります。

後宮とは、皇后や女官たちが住む宮中の奥御殿です。基本的には男性は入れません。

また中宮とは天皇の妃のことです。

後宮は中宮をはじめとして教養の高い人が多く、女官も選ばれし女性たちでした。

そんな空間で生まれたのが源氏物語や、枕草子などの女流文学だったのです。

中宮定子と中宮彰子はどちらとも一条天皇の后です。

最初に一条天皇の后だったのは中宮定子の方です。

しかし、長徳の変で兄である藤原伊周が失脚すると、中宮定子も御所を去ることとなります。

(のちに宮中に戻ることとなります。)

その後、一条天皇の后となったのが藤原道長の子である中宮彰子でした。

枕草子で有名な清少納言は中宮定子に仕えていた女官でした。

一方、源氏物語で有名な紫式部は中宮彰子に仕えていました。

二つの有名な作品には2人の中宮の存在があり、またその2人には一条天皇が関係していたのです。

ところで、一条天皇は中宮定子をとても愛していたといわれています。

それは中宮定子が一条天皇の子供の時から共にいた存在だったからかもしれません。

実際に長徳の変の後、伊周は許され、中宮定子も周囲の反対を押し切り宮中に呼び戻されています。

若くして亡くなってしまう中宮定子

一条天皇に愛された中宮定子でしたが、第二皇女である媄子内親王(びしないしんのう)を出産した際に、

若くして亡くなってしまいます。

26歳でした。平安時代の人は短命ですね・・。

当時の出産は命がけだったのです。

一条天皇は悲しみに暮れたことでしょう。

そして、10年後一条天皇も亡くなってしまいます。

ここで本稿の本題の辞世の句の話です。

一条天皇の辞世の句とは

露の身の草の宿りに君をおきて塵を出でぬることをこそ思へ

これは君を残して死んでしまうことが心残りだ、みたいな意味なのですが、

”君”が誰なのかという部分で解釈に争いがあるのです。

意味から考えると一条天皇が亡くなった時にも生きている中宮彰子なのかとも思えますが、

一条天皇は彰子の父である藤原道長と仲が悪かったとも言われています。

そこで、この”君”は中宮定子なのではないかと言われているのです。

定子の魂は実はこの世をさまよっていて、その魂を残してあの世へ行ってしまうことが

心残りだ、というような意味なのではないかと言われているのです。

一条天皇は中宮定子を最後まで思っていたのかもしれません。

以上、一条天皇の辞世の句にまつわる話でした。