あなたは何人知ってる?有名じゃない戦国大名〜戦国時代通になれる!
戦国大名とは?
まず、基本的なことですが戦国大名とは何を指すのでしょうか。山川日本史小辞典にはこう記されています。
戦国期に、数郡から1国ないし数カ国の規模で領域支配を展開した地方政権の称 日本史広辞典編集委員会・編 山川出版社 551P
戦国時代の前は室町時代でしたが、将軍を頂点とした中央政権の求心力が弱まったことに連れて地方の守護大名や、守護代が力を持ち戦国大名へと成長していきました。
歴史的には後の幕藩体制につながるきっかけとなりました。
有名じゃない戦国大名とは?
アンケートを取ったわけではないので、有名、有名じゃないは完全に自分の独断と偏見です。
自分がなんとなくあまり知られてないんじゃないかと思った戦国大名たちを紹介します。
詳しい人はなんでその名前が・・?ということもあるかもしれませんが、ご了承ください。
蒲生氏郷(がもううじさと)
「美的センスもある、信長が見出した最高の天才」
生年1556年~没年1595年 近江国蒲生郡生まれ(今の滋賀県)
(略歴)
最初は近江の六角氏に仕えていました。主家が滅ぼされるに伴い織田信長に仕えるようになりました。
浅井長政と戦った姉川の戦い、武田勝頼と戦った長篠合戦で武功を上げ、頭角を現します。
本能寺の変後は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えます。今の関東で行われた戦い小田原攻めにも参戦し、秀吉から会津42万石を与えられました。
その後、朝鮮侵攻にも参加しますが、京都の蒲生屋敷で亡くなってしまいます。
(どんな人?)
非常に優秀な人だといわれていて、勇気もあり戦場ではたくさんの武功を上げました。
美的センスもあり、ナマズ尾兜という兜をかぶっていました。そのセンスを信長から褒められたらしいです。
胆力もあり、仕えたばかりのころ主君である信長を睨みつけたといった逸話も残っています。
とても野心家で、天下人となることをひそかに願っていたそうです。
しかし、小田原攻めの後に秀吉から会津を与えられたのですが、それは当時としては日本の中心である京都から遠ざかるということであり、
天下人を夢見ていた氏郷にとってみれば残念なことでした。十分、天下を統一するだけの能力を持ち合わせた武将でしたが、
運命は残酷なもので、秀吉よりも早く亡くなってしまい、
その夢は叶わずじまいとなってしまいました。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)
「戦国の世を駆けた、四国の覇者」
生年1539年~没年1599年 土佐(とさ)国生まれ(今の高知県)
(略歴)
個人的に司馬遼太郎さんの「夏草の賦」で知っていたので好きな戦国大名なのですが、一般的な知名度はそこまでないのかなと思い、ここで紹介します。
21歳の時、長浜の戦いで初陣を飾ります。しかし同年父である長宗我部国親が急死し、長宗我部家を継ぐこととなります。
「四万十川の戦い」で土佐を統一し、その後信長との同盟を得て土佐以外の3国に侵攻を開始します。
讃岐(さぬき)、阿波(あわ)を先に制圧しますが、伊予は毛利氏の援助を得て苦戦します。
しかし、46歳のころ四国をほぼ平定することに成功します。
しかし時代の流れなのでしょうか、その後、羽柴秀吉から10万の軍勢で攻められ降伏することとなります。
(どんな人?)
長宗我部元親という武将は、21歳まで戦に出たことがないという変わった人でした。家臣からは「姫和子(ひめわこ)」と陰で呼ばれていました。
これは、姫のような若君という意味で、武芸の練習をせず読書ばかりしている元親のことを指してこういったのでした。
21まで戦に出さなかった国親も、あまり元親に期待していなかったのでしょうか。元親は初陣前に「槍はどうやって使うのか?」と家臣に質問してあきれられています。
しかし、実際に戦ってみると勇猛な事この上なく、結果として四国を統一することとなるのです。
佐竹義重(さたけよししげ)
「鬼義重と恐れられた猛将!源義光の子孫」
生年1547年~没年1612年 常陸国生まれ(今の茨城県)
(略歴)
15歳の時に佐竹家18代目当主となります。
38歳のころ、人取橋(ひととりばし)の戦いで”独眼竜”伊達政宗を敗走させます。
(余談ですが、伊達政宗はこの人の甥にあたります。)
しかし、43歳のころ摺上原(すりあげはら)の戦いでその伊達政宗に惨敗を期します。
蒲生氏郷の項でも触れた小田原攻めでは秀吉側につき、伊達家に先んずることに成功します。
その後、関ヶ原の戦いがありその後、秋田移封となり故郷の茨城を去ることとなります。
(どんな人?)
当時、鬼義重の名は京都まで鳴り響いていました。その軍団は勇猛で知られ、部下には鬼真壁と呼ばれた真壁氏幹などがいました。
義重は猪突猛進型の武将で、一太刀で敵を7人切り伏せたという伝説が残っています。
常陸は北に伊達政宗、南に北条氏政という二大勢力に挟まれた土地で、独立を守った佐竹義重は優秀な人でした。
仙石秀久(せんごくひでひさ)
「藩主→浪人→藩主 ジェットコースターのような人生」
生年1552~没年1614 美濃国加茂郡生まれ(今の岐阜県)
(略歴)
秀久を見出したのは織田信長でした。体格がいいのを買われたようです。
浅井を攻めた「姉川の戦い」で敵将の首を取るなどの戦働きをします。
後々行われた「賤ケ岳の戦い」のあと淡路5万石の大名となります。
と、ここまで順調に出世した秀久でしたが、
九州平定での敗戦で改易され、浪人となってしまいます。
ところが仙石秀久、小田原攻めの際に豊臣方に潜り込み、戦働きによって帰参を許されます。
最後、小諸藩主となり、江戸から小師へ帰る途中の鴻巣で亡くなってしまいました。
(どんな人?)
最初、見事な戦働きで順調に出世していき淡路5万石を有するまでになるのですが、痛かったのは九州平定戦での敗退でした。
当時、天下統一目前といった時期で四国を平定したので次は九州だ!と四国勢を率いての九州攻めでした。
この時、仙石秀久の軍は味方の秀吉勢が来るまで守りに徹するという話になっていたのですが、
徹底攻勢を秀久は主張します。
ものすごい手柄を立てることに気が急いていたのでしょうか。止める周りの人を振り切って攻勢に出ました。
しかし、結果は上述した通り惨敗、秀久方は十河永保(そごうながやす)や長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)などの優秀な将を失うなど大ダメージを被ります。
怒った秀吉は秀久を改易(クビにすること)、しかも秀久はさっさと四国に逃げ帰ってしまったので島津方からも
「三国一の臆病者」とあだ名されてしまうのです。
このエピソードで歴史好きの人からは戦国時代一の卑怯者なんて言われてたりします。
しかし、すごかったのがその後の小田原攻め。
なんとか再ブレークを果たそうと家康に仲介してもらって参戦することになります。
どうやって武功をたてようかと思い、考えたのが鎧に鈴をつけるという作戦。
戦場で目立つということは命を狙われる危険性が高まりますが、それと引き換えに、手柄を立てるチャンスも高まります。
もう後がない仙石秀久ならではの決死の作戦と言えるのではないでしょうか。
その話を伝え聞いた秀吉は秀久を許し、秀久は小諸5万石を与えられることとなるのです。
臆病者と呼ばれ、一度は浪人となった秀久、その復活劇には現代の人も参考にする点があるのではないでしょうか。
以上、著者の観点から有名じゃないけどもっと評価されていい戦国大名を紹介してきました。
少しでも参考になれば幸いです。
読んでいただきありがとうございました。
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