2023年2月26日

日本古代史の常識を変えた!!相沢忠洋と岩宿遺跡

投稿者: のんきまる

  • 相沢忠洋とはどのような人か
  • 芹沢長介のもとへ持ち込まれた黒曜石
  • 関東ローム層で見つかったこと

岩宿遺跡とは

群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡です。

かつて、縄文時代以前に日本には人が住んでいなかったという説が

支配的でしたが、

岩宿遺跡の発見によって、旧石器時代にも日本に人類がいたことが

明らかになりました。

岩宿遺跡は日本の旧石器時代研究の端緒となったのです。

この記事ではその経緯を記していきたいと思います。

相沢忠洋とはどのような人か

大正15年東京は羽田に生まれたそうです。

相沢忠洋氏は以前、海軍の水兵をやっていた時期があるそうで、

その名も武山水兵団といいました。時代を感じますね、

水兵をやっていたのは意外でした。

若い時は丁稚奉公をしていたこともあるようで、生活は豊かでは

なかったようです。小学校も夜間に通っていたらしいです。

しかし若い時分から考古学を志し、休日には帝室博物館に行ったり

していたそうです。

岩宿遺跡を発見したころは群馬の赤城山麓でポンせんべいや納豆の

行商をしていました。

発見のいきさつ

赤城山麓で納豆などの行商をしているとき、自転車で町まで

行くそうなのですが、その道中に現在の岩宿遺跡となる場所が

あったらしいんです。

ある日、道に石片が落ちていたので何気なく拾い、それがどこから

落ちてきたのかと考えました。(断層が露出していた。)

それから気になって同じような石片を拾い始めました。

この習慣が世紀の発見につながったんです。

昭和24年(1949)7月某日、同地より7センチの黒曜石の

石槍を採取しました。

当時、旧石器時代の研究者だった芹沢長介氏と偶然一緒になった折に

それを伝えました。

かつて学会では縄文時代以前の日本において人類はいなかったという

説が支配的だったのですが、芹沢教授はそれに疑問を持っていた人でした。

芹沢氏は詳しく知りたいと思い、それを見せてくれるよう手紙で

相沢氏に連絡を取りました。突飛な話だったので、発見を

否定されるのではと不安がった相沢氏は最初見せることを

ためらったらしいのですが、

芹沢氏の誠意に折れて石槍を持参したそうです。

石槍を見た時の芹沢氏の興奮はいかばかりだったでしょう。

すぐさま発掘作業が行われる運びとなりました。

そして発掘へ

同年9月11日発掘が行われる運びとなりました。陣容は

  • 杉原荘介 登呂遺跡の発掘で有名
  • 芹沢長介
  • 岡本勇 学生
  • 相沢忠洋 発見者
  • 加藤さん 中学生
  • 堀越さん 中学生

といったものでした。

具体的な発掘の様子は参加した岡本勇氏の証言が残っています。

その日は午後から雨が降ってきたそうなのですが午後4時くらいまで

発掘が進められました。しかし、何も出ずひたすら掘り続ける、

5時くらいで切り上げようという話になり、疲れた体に鞭打ちつつ

掘り続けるとかつんとシャベルの先に当たるものがあったそうです。

なんだと拾い上げたその石は日本の考古学の常識を変える貴重な石でした。

それは確かに旧石器時代の遺物だったのです。

発掘に参加した人たちは涙を流して喜んだそうです。

そして当時研究室のあった明治大学に現地から電報を打ちました。

「ハツクツニセイコウ タダナミダノミ スギハラ」

9月19日には大学で記者発表があり、翌日には新聞で報道されました。

かくして日本の考古学の常識は書き換えれたのです。

まとめ

以上、岩宿遺跡の発見と発掘の経緯でした。もちろん正式に学会で承認されるには

この後にもいろいろとあるのですが、直接的な発見としては以上のような顛末でした。

高校の歴史でやった岩宿遺跡にもこのようなドラマがあったのだと思い胸が熱くなり

ました。

参考文献「日本列島発掘史」大塚初重著 中経出版

読んでいただきありがとうございました。