天正遣欧使節
2022年12月18日

結局どうなった?天正遣欧使節たちのその後とは・・

投稿者: のんきまる
  • 天正遣欧使節とは何か?
  • 日本で厳しくなったキリスト教の迫害
  • 4人の使節のその後・・

天正遣欧使節団とは何か

1582年、日本に布教で来ていたイエズス会の提案で実行されたヨーロッパへの日本の少年たちによる使節団であり

当時の九州あたりを治めていたキリシタン大名3名、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠の名代(かわり)として派遣されました。

伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4名が日本の使節として向かいました。

なぜ派遣されたのか?

当時日本に来ていたイエズス会士であるヴァリニャーノはキリスト教の布教をより押し進めたいと考えていました。

そのために最先端を行っていると自らが考えていたヨーロッパの文明を日本人に見せるために

ヨーロッパへの使節団の派遣を提案したのです。

ヴァリニャーノ・・・(1539~1606)

1579年肥前国口之津に上陸、のち畿内を回り織田信長に歓待される。
日本人聖職者養成のための施設コレジオ、セミナリヨ、ノビシヤド等の設立を命じる、日本のキリスト教布教に貢献した。

布教を受ける者の中には日本に来る宣教師の立場を怪しんでいる者もいました。進んでいるヨーロッパの文明を見せることで

宣教師が決して身分の低いものではないとわかるだろうと思ったのです。

またヨーロッパの文化を見聞したものの口からヨーロッパのもろもろが日本国内に伝わり、布教の助けとなると考えたのですね。

さらに、当時日本国内で布教する際には信徒からの寄付が少ないという問題がありました。

むしろ宣教師のほうが施しをすることが多かったんです。

そんなこんなで経費もいろいろかかるということで

日本の優れた信仰心の厚いものをスペインに連れていき、国王に見せて

日本への布教熱を高めることで、事業費を得ようとしたんですね。

バテレン追放令で布教が厳しく・・

バテレン追放令とは1587年6月19日付で発布された宣教師追放令のことです。(バテレンとはキリスト教の司祭のこと)

豊臣秀吉が出しました。その内容としては

”日本は神国であり昔から神や仏を敬ってきたのに、それをないがしろにするキリスト教は邪教である!よって宣教師に国外退去を命じる!”

というようなものでした。

どうして秀吉が急に追放令を出したのかは歴史の謎なのですが(この日までは宣教師とと会って普通に歓談とかしてたのに)

主な理由としては、日本人がポルトガルの商人に人身売買で売られたり、

※(売る日本人がいるので買うポルトガル人がいるともいえます、確かに当時日本では戦に負けた側の人は奴隷として売られる慣習があったんですが、とはいえ宣教師はその取引の場に立ち会ったりしてたんです)

寺社仏閣の破壊等があります。(ルイス・フロイスの日本史にも書いてあります。コエリュなど一部の宣教師は仏像に唾を吐きかけたり、燃やしたり、切って薪として使ったりしていました。)

とはいえ一番の理由はキリスト教がこれ以上広まって、強力な勢力になることを憂えたのではと思います。

実際、ヴァリニャーノも日本を征服する力があればいいのにということを言っていたみたいです。

ちなみに、このバテレン追放令が島原の乱につながる大きな要因となるのですが、それはまた別の記事として書きたいと思います。

そんなこんなで遣欧使節団は出発の時よりも帰る際に世間の風当たりが強くなるという状況がありました。

ここで本題、4人の使節はその後どうなったのでしょうか。

4人の使節のその後

基本的に日本に遣欧使節の資料は少ないです。その一点を考えても当時の彼らへの世間の風当たりの強さを感じますね。

まず伊東マンショですがこの人は43歳で長崎で亡くなったらしいです。ほかの人と違って国内で亡くなっているのでこの人はまだ救いのあるほうかもしれません。

次に千々石ミゲルですが日本に帰り棄教しました(信仰を捨てること)。藩主より棄教令が出ていたのですね。千々石清左衛門という名前になったそうです。

かつての遣欧使節ということで周囲から白い目で見られていて、後年は信仰心はなかったということです。(回想録 アルフォンソ・デ・ルセーナ)

原マルチノ、この人は頭のいい人だったらしく、日本に戻ってからは肥後宇土城に投獄されている5名のイエズス会士の開放を成功させるなど活躍していましたが、

国外追放になると日本に戻れずに亡くなりました。

最後に一番壮絶だと個人的に思うのは中浦ジュリアンの最期です。

1632年の末に福岡小倉で捕まり、10月18日に逆さづりの刑にかけられました。これは穴を掘ってその上に逆さにつるされるもので

苦しみが長引くように耳のところを切られて血が流れ続けるという陰惨なものでした。

横で宣教師のフェレイラも同じ刑にあっていたのですが、フェレイラは苦しみのあまり手を上げました。(棄教の合図)

しかし中浦ジュリアンは最後まで棄教せず、そのまま殉教(信仰のために死ぬこと)したとのことです。

壮絶ですね。

偉業は変わらない

もしかしたら彼らの晩年は平穏なものではなかったのかもしれませんが、彼らがあの戦国の世で、情報も少ない中で

万里の波濤を超えて大海をはるか越えて遠くのヨーロッパの地を踏んだことに変わりなく、その偉業は後世の我々の記憶に刻まれています。

事実、彼らの出生地には顕彰の碑が建てられているそうです。

これからも語り継いでいきたいです。

天正遣欧使節のその後は壮絶な人生だった

お読みいただきありがとうございました。

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 ・本記事ゆかりの地

・長崎県大村市森園町 天正遣欧使節顕彰之碑