松永久秀
2022年12月11日

松永久秀〜梟雄?信長も認めた戦国一のヒール?その伝説と真相とは?

投稿者: のんきまる

  • 松永久秀とはどんな人?
  • 神も仏も恐れぬその所業とは?
  • 城つくりの名人
  • クリスマス停戦とは何か?
  • 平蜘蛛をめぐる壮絶な死にざま
  • 虚実を暴く
☆同時代の出来事☆・・・

ヨーロッパ・・オランダ(ネーデルラント連合共和国)の独立宣言(1581年)  これがあって日本とオランダが交易するようになっていくんですね。

松永久秀とはどんな人?

松永弾正久秀(弾正は官位から・・弾正忠 弾正台の四等官の一つ、これは勝手に名乗っていたものだったが、のちに正式に弾正少弼となる)とは戦国時代の人で、

北条早雲、斎藤道三とともに戦国の三大梟雄の一人とされています(三大梟雄が誰かは諸説あり)。

梟雄とは残忍でかつ勇猛なことを言います。三好長慶(畿内・阿波の戦国大名)の右筆(秘書)として出仕(就職)したのを皮切りに、どんどん出世していって

50歳のころ大和(今の奈良県)を平定し天守閣を信貴山城に造営します。

信長が上洛(京都に入ること※)するといち早く降伏し、信長の下につきます。(もともと同盟を結んでいて、下についたわけではないとの説もあり。)

出生についてはよくわかっていなくて両親はともに不明、(五百住(よすみ)にあった妙福寺という寺が八上山中に移されたことがあり、よすみが有力か?)

しかし才能があり教養人だったので三好長慶に寵愛されたようです、

また茶を愛する文化人でした。

伝説では性格は残忍と言われており、その悪事は後世の語り草となっています。

では、そんな悪事とはどのようなものを指すのでしょうか?

※上洛
 
かつて中国王朝の首都であった洛陽を京に見立て、京に入ることを上洛などといった。

こやつの悪事は天下に名を轟かせた

上記の言葉は松永久秀に対して織田信長が発した言葉です。松永久秀は信長の20くらい歳上でした。

湯浅常山(常山紀談より)

東照宮、信長にご対面の時、松永弾正久秀かたへにあり、信長、この老翁は世の人のなしがたき事三ツなしたる者なり、将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿をや焚たる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗をながして赤面せり、

                  「松永久秀 歪められた戦国の“梟雄"の実像」
                            天野忠幸  宮帯出版社

松永久秀が起こした悪事に”将軍殺し” ”東大寺大仏殿焼き討ち” ”主君への反逆”があります。名前だけでも内容が大体想像つきますよね・・

55歳の時に三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)とともに室町13代将軍の足利義輝を殺害します(これは息子がやったものであり、久秀自身は急いで弟である義昭を守ったといいます。)この人は武芸の達人で有名だった人です。

この事件は永禄の変と呼ばれます。

その2年後、今度はその三好三人衆との戦いのさなかに東大寺の大仏殿が炎上してしまい、悪名が天下に鳴り響きます。(放火か失火か諸説あり)

また、主君三好長慶の息子や弟を暗殺したとの話もあります。(ただしこれは軍記物語が出典であり信憑性に乏しい、むしろ主君三好長慶に対しては忠実だったという。)

まさにダークヒーローといった感じで人気がありますよね。

それでいて教養人で茶人、武野紹鴎(じょうおう)に師事(師と仰ぐこと)していたり、

信長が上洛した際には名物「九十九髪茄子」(漢作、茶器、もともとは足利義満が持っていた)を贈ったりしています。

城つくりの名人

城郭建築の名手で、多聞櫓の発案者といわれています。(これも諸説あり)多聞櫓とは石垣の上に長屋風の櫓を築くもので、その機構は結構な数のお城につくられています。

以前は天守閣の発案者も松永久秀かと言われていましたが、これは違うとされています。

しかし、そんな話が出るほど城づくりに長じていたのですね。

クリスマス停戦とは?

大阪は堺で三好三人衆と戦っている際に、双方にキリシタン大名が多くいたのでちょうどクリスマスの時期だということもあり、停戦し、降誕祭(クリスマスのこと)をともに祝ったという話が伝えられています。

この事は「堺市史」やルイスフロイス(イエズス会士、戦国期に日本に来た宣教師)の書いた「日本史」にその記述が見えます。

しかし、「日本史」の記事には”停戦をした”とまでは書かれておらず、また、松永久秀自身が日蓮宗の檀那(布施をする人、経営を支える人)だったので、

(日蓮宗は他宗教に厳しい面があるので)降誕祭をともに祝ったというのは考えにくいとのことです。

壮絶な最後

信長の軍門に下った久秀でしたが、やはり戦国の梟雄と呼ばれた男、反旗を翻します。

御年68歳、

1577年(天正5年)、石山本願寺(大阪城のところにあった浄土真宗のお寺)などの反織田信長勢力と結び、信貴山城に立てこもります。

信長側は息子の織田信忠を総大将に任命し、10万の手勢で向かい城を包囲します。

「古天明平蜘蛛」という茶器の名物を引き渡せと迫りますが、久秀はそれを断り

「そんなことをするくらいなら、火薬を詰めて茶器を粉々に壊してくれる!」と返答、

最終的に茶器を割り、城に火をつけ果てました。

一説によると茶器とともに爆発したという話もあり(これは第二次世界大戦後に生まれた俗説らしいです。)、その壮絶さはさすが戦国一のヒールといったところですかね。

梟雄にふさわしい壮絶な最後でした。

ゆがめられた真実?

ここまで、松永久秀の伝説を書いてきたのですが、(本文中にもいろいろ書きましたが・・・)これらの伝説は実際の話とはだいぶかけ離れているみたいです。

将軍暗殺したのは(そもそも暗殺じゃないし)子供の久通だということですし、主君の三好暗殺も根拠のない話ですし、大仏殿の焼き討ちも失火の可能性が高いらしいです。

また、壮絶な最後も俗説だというのです。

爆死したというのは俗説だということは記しましたが、自分で壊したというのも怪しいらしいです。というのも

平蜘蛛は落城後も残っていたらしいのです。

天正8年5月13日に八尾で催された茶会で、若江三人衆の一人の多羅尾綱知が使っているという資料が残っているらしいんです。

久秀の伝説はあくまで伝説ということなのかもしれません。

とはいえそんな伝説が残るのも松永久秀が優秀な人間だったからということなんじゃないでしょうか

これからは松永久秀の虚と実をともに親しんでいきたいと思います。

ではまとめます。

松永久秀は戦国の梟雄であり、その成した悪事とは将軍暗殺、大仏殿焼き討ち、主君への反逆(異説あり)だった。しかし、それらの事実は信憑性に乏しい・・・。

お読みいただきありがとうございました。

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関連史跡・・

信貴山城跡 <住所> 奈良県生駒郡平群町信貴山1308
           山の上に信貴山城跡の碑がたつ。