和泉式部日記とは?恋多き和泉式部の歌の謎
- 和泉式部日記とは
- 和泉式部とはどんな人?
- 恋愛体質な和泉式部さん
- 帥宮(そちのみや)敦道親王との恋
- 和泉式部が会いたがったのは誰か?
- 国風文化発達の裏には遣唐使廃止が
和泉式部日記とは
平安中期に成立した日記文学で、著者は和泉式部です。
1003年4月より翌年1月の間にかけての和泉式部と帥宮敦道(そちのみやあつみち)親王との恋のあれこれを描いています。
贈答歌(送りあうやつ)145首が詠まれていて、主人公は「女」という言い方で客観的に描かれています。それは
「伊勢集」、「一条摂政御集」のように物語的な書き方となっており、私家集から日記文学に移るまでの過渡期の作品となっています。
日記文学とは・・・ 日記の中でも、自分のことを書いていて、内面に光を当て、描写が細にわたっているもの。
私家集とは・・ 個人の歌集のこと
和泉式部とはどのような人か
平安時代中期を代表する歌人で、※中古三十六歌仙(下に書いてます)の一人です。
拾遺集(しゅういしゅう 拾遺和歌集、三番目の勅撰和歌集←天皇が命じて作らせるやつ)以下の勅撰集(ちょくせんしゅう)に248首、採用されていて、その作風は情熱的なものが多いです。
代表的な歌を一首載せます。
あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな・・ 百人一首56番
あの世へ行く思い出にもう一度会いたいです。そんな思いをうたったこの歌、
当時和泉式部は病床に臥せっており、そんなおりに詠んだ歌らしいです。
20の頃に橘道貞(みちさだ)←藤原道長の側近と結婚し小式部内侍(こしきぶのないし)を生みます。
その後、冷泉天皇(63代の天皇)の皇子為尊(ためたか)親王と恋に落ちます、親王は天皇になる資格のある人で、行ってみれば王子様
女性の方は憧れる話じゃないでしょうか、
当時はモテる要素が”頭がいい””教養がある””いい歌を詠む”という感じだったので。
頭のいい和泉式部はモテモテだったでしょう。しかもこの時、和泉式部はまだ橘道貞と婚姻状態にあったので今でいう不倫?なわけです。
この時に和泉式部は親から勘当されています。壮絶ですね。
身分違いの恋に宮中は話題になりますが、そんな折、為尊親王は亡くなってしまいます。
昔の恋を忘れさせてくれるのは新しい恋なんて誰かが言ってたような気がしますが、
さみしく日々を送っているとある人から連絡が来て、付き合うことになるのですがそれがなんと・・
為尊親王の弟の敦道親王だったんです!
兄弟と恋愛、しかも王子様って・・恋多き女性ですね。
和泉式部日記はそんな敦道親王との恋のお話です。
※中古三十六歌仙とは平安時代末期に「後六々撰(のちのろくろくせん)」に藤原載兼が選んで載せた、和歌の名人36人の総称。
帥宮敦道親王って・・
敦道親王は冷泉天皇の第4皇子です。最初、時の関白藤原道隆(みちたか)の娘と結婚しますが、道隆が 亡くなると別れます。
前述しましたが、兄の為尊親王がなくなるとその翌年、和泉式部と恋仲になり自分ちに住まわせます。
これが原因で奥さんの藤原済時(なりとき)の娘を怒らせて離婚することになりました。
これは宮中でも批判沸騰だったそうです。しかし2人はどこ吹く風と葵祭(今でもやってる京都のお祭り)に目立つ格好で出かけたりしていたそうです。
2人とも恋多き人だったわけですね。
日記に書いてあるのはそんな2人の恋愛模様です。
しかし、敦道親王も亡くなってしまう
和泉式部に載っているように熱い恋愛に身を焦がした2人ですが、
若くして敦道親王が亡くなってしまいます。平安時代の人は短命だったのですね。
太く短く生きるということでしょうか。
40代でまた別の人と付き合いますが、そんな和泉式部にも人生の斜陽の時期が訪れます。そして詠んだのがあの歌なのです。
そう、最初に紹介したあの歌
あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな・・ 百人一首56番
恋多き和泉式部の人生を知って、再びこの歌を聴くとき感慨深いものがあります。
最後に和泉式部が逢いたかったのは誰なのでしょうか?
それは和泉式部だけが知っているということなのでしょう。
遣唐使の廃止による国風文化の発達
唐の治安悪化を受けて菅原道真公により894年に遣唐使廃止が提案され、決定し
それ以降、公式には唐の文化が入ってこなくなり、日本風の文化が発達することになりました。
10~11世紀のことです。後の日本文化の基礎を形作ったもので、代表的なものに、
かな文字の発達による物語文学の発達、女房装束などの服飾文化、寝殿造りなどの建築文化、漢文の日本化による和漢混交文などがあげられます。
和泉式部日記などの発達の裏には遣唐使廃止などのダイナミズムが関係していたんですね。
伝説となった和泉式部
各地には和泉式部に関する伝説が残っています。おおすじは旅をしている和泉式部が
すごく上手な歌を詠む子供を見つけて、一緒に歌を詠むといったようなものです。
重要なのは昔の人に和泉式部がそれだけ知られていたということです。
歌のうまい人の代名詞のような形で認識されていたのですね。
では、まとめたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。
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