朔平門の変~幕末京都の未解決事件
- 朔平門の変とはどのような事件?
- 犯人から奪った刀が下手人の決め手!!
- 永井尚志の手落ち?被疑者は自殺で迷宮入り
- 薩摩冷遇→薩会同盟へ向かう?
朔平門の変とはどんな事件?
朔平門の変とは京都で起こった事件です。時は幕末の文久3年の5月、禁裏(天皇の住まい)の朔平門外、猿が辻で当時尊王攘夷派(天皇を大事にして、外国勢力を打ち払おうとするもの)で黒豆とあだ名された公家、姉小路公知が浪士風の3人の男に襲われ死亡した事件です。時刻は夜10時くらいで、姉小路公知は深手を負いながらも自宅まで帰りましたがそこで倒れこみ、至急典医(偉い医者)を呼び手当を施しましたが、翌日の朝10時くらいに亡くなったそうです。
犯人は誰?
公知は大変影響力のある人物だったので、幕府をあげて調査が進められました。捜査の手掛かりは公知が敵から奪った一振りの刀。
そしてどうやらそれを持っていたらしい(吉田寅太郎や那須慎吾の証言により発覚した)男の素性は幕末4大人斬りの一角とされる田中新兵衛でした。
田中新兵衛・・ 薩摩藩士で、幕末4大人斬りの一人。安政の大獄で活躍した島田左近を先斗町(ぼんとちょう)でさらし首にしたのはこの男。
至急取り調べをする運びとなりました。
田中新兵衛は自殺してしまう・・
取り調べの折、京都町奉行永井尚志が担当したのですが、少し席を立ち戻ると田中新兵衛は自らの刀で自害していました。
真実を明らかにするつもりが、事件は迷宮入りしてしまうのです。
真実は闇の中に・・・?
落ちていた刀が新兵衛のものだったのでこれは間違いないということになったのですが、
実は新兵衛は数日前に刀を盗られていたという話もあり、新兵衛が犯人ではないという説があります。
ではどうして自殺したの?という話ですが
自殺した理由は刀を落としたことがもはや武士の恥であるなどの理由であり、真実を隠すためではないというわけです。
一方、生き残りの人も新兵衛が犯人だと証言しておりどちらが本当かわかりませんが・・。
また、そんなこの事件には長州の影が見え隠れしているとかいないとか・・。
裏に見える長州の影・・そして薩会同盟へ。
真実は闇の中にまぎれてしまったわけですが、しかし幕府側はもはや薩摩が犯人だと決めつけている形でした。
今まで禁裏の門を薩摩も守っていたのですが、いきなりその任を解かれてしまいます。薩摩は締め出されてしまった形ですね。
いわば薩摩は冷遇されてしまうのです。
代わりに長州が表だってきます。もしかしたら、公知暗殺は長州の策略だったのかもしれません。
当然、薩摩は面白くありません。再び薩摩が影響力を持つために急激に会津と接近していきます。
これがきっかけで、薩摩は会津と結びついてくのです。
そして八月十八日の政変など逆に長州が追い落とされていく形となります。
この事件はそんな歴史の節目となる事件だったのですね。
八月十八日の政変・・ 1863年(文久3年 朔平門と同じ年)会津藩、薩摩藩などが長州の尊攘派を京都から追放したクーデター。 長州の宮廷警備は停止され、また尊攘派公卿が追放された。 討幕運動のきっかけともなった。
どうして公知さんが殺されたのか
姉小路公知は尊王攘夷派の公家でした、攘夷志士とは本来思想をともにしているはずなので殺されるものではないはずです、
そんな公知が殺されたのは勝海舟に外国の話を聞き、開国に考えが傾いたからという話があります。
確かに、当時日本は海外と比べて国力は弱く、到底戦える状態ではありませんでした。
結局、国は開国へ向かいますし、公知の考えは時代に即していたともいえます。
ただ、世相はそれを許さず、殺されてしまったというのがなんとも悲しい話ですね。
ではまとめます。
お読みいただきありがとうございました。
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