坂本龍馬暗殺~・・はどうして謎と言われるのか?
- 真っ先に駆け付けた谷干城?
- 犯人は捕まっている?
- どうして殺されたのか・・・
坂本龍馬暗殺・・坂本龍馬とはどんな人物?
知っている人には蛇足かもしれませんが、まず坂本龍馬がどんな人物が書きたいと思います。知っている人は飛ばしていただいて構いません。
坂本龍馬は、1835年生まれで、1867年に亡くなった幕末の志士です。土佐の脱藩浪士で、代表的な活動として薩長同盟(教科書では薩長連合ともいう)成立によって幕府の長州征伐を失敗させたり、
亀山社中を起こして海運業を興したり、船中八策(新政府案)を起草して大政奉還を押し進めたりなどがあります。
幕末当時、ペリー来航に端を発する尊王攘夷の熱は日本の津々浦々をつつみ、数々の雄藩が攘夷を叫びました。
その代表的な藩が長州藩(萩藩)でした。長州藩は京都でも活躍していましたが、八月十八日の政変(長州が京都から締め出される)や池田屋事件(長州志士が京都池田屋で新選組に打ち取られたもの)などで勢いがなくなっていきます。
禁門の変(長州が兵を率いて京都にやってきて会津、薩摩と戦うことに)で朝敵となると、幕府から目を付けられ征伐される立場になってしまいました。
4か国艦隊砲撃事件(攘夷の詔勅が出たので、4か国の商船に砲撃したら、手痛い報復をされた。)などで手痛い被害を受けていたこともあり、第一次長州征伐は長州側の大敗となります。
一度、長州内部は開国に藩政が変わりますが、高杉晋作のクーデターなどでまた攘夷を唱えるようになります。
結果、幕府に目を付けられ第二次長州征伐という運びとなるのですが、長州が困ったのは戦うための武器がないことでした。
そこで、登場したのが薩摩(鹿児島藩)でした。
もともと、薩長同盟という考え方を思いついたのは中岡慎太郎と土方久元だといわれています。
薩摩は長崎のグラバーを通して西洋の銃などを購入することが可能でした。(亀山社中も)
会談は長州の薩摩藩邸で行われました。薩摩は西郷隆盛、長州は桂小五郎(明治では木戸孝允)の話し合いでした。
場は持たれましたが、双方切り出せず、特に桂は長州側から切り出すと頼むような形になり屈辱的なのでそうできずにいました。
そこにやってきたのが坂本龍馬だったそうです。
坂本龍馬は人生で二度しか怒ったことがなかったらしいですが(「幕末史」半藤一利著)その一度がこの時だったらしいです。
口を酸っぱく薩長同盟の意義を説いて、薩長同盟が成ることとなりました。
これがきっかけで長州征伐は失敗し、幕府の権威は失墜することになったのです。これは倒幕の大きな原因になりました。
近江屋事件とは?
近江屋事件とは、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都近江屋にて何者かに殺害された事件のことです。
近江屋とは京都、河原町通りにある醤油屋でした。土佐藩御用だったので土佐の拠点のようになっていました。。
寺田屋で襲撃を受けたこともあり、当時竜馬は警戒していました。
事件は慶応三年11月15日(1867年12月10日)に起こります。その日、中岡慎太郎が夕方に訪ねてくると何事かを論じあっていたといいます。(何かは不明、察するに大政奉還についてか←中岡慎太郎は戦争を起こすべきだと思っていた。)
中岡慎太郎は龍馬の所へ来る前に当時書店であった菊谷に手紙を持参し、返書は近江屋に持ってくるように言っていたので峰吉というその家の子供が近江屋に訪ねてきました。
岡本健三郎(土佐藩士、のち、民選議院設立の建白書を板垣退助と共に作成。)も訪ねてきて、小半時談笑すると、竜馬が腹が減ったといったので岡本と峰吉がともにしゃもを買いに出かけました。
戻ってきたのが9時半だったといいます。その間に刺客が近江屋を襲っていました。
何故、刺客にやられてしまった?
龍馬は寺田屋では生還しています。どうして近江屋ではやられてしまったのでしょうか。
刀を傍らに置いていたので応戦するのが難しかった。また、相手が暗殺のプロだったといったことが理由としてあります。
真っ先に駆け付けた土佐藩士
真っ先に駆け付けたのが土佐藩士の谷干城(たてき)だったといいます。(後の陸軍中将、西南戦争の熊本城の戦いにて、官軍側の指揮官。)
まだ息があった中岡慎太郎から犯人の情報を聞き取り(2日後に亡くなる)、犯人の捜索に貢献しました。
とはいえ意識がもうろうとした中での証言であり、それを差っ引いて考える必要があります。
さて、中岡慎太郎が言った犯人の特徴とは何だったのでしょうか
- 犯人は新選組か?
- 十津川郷士を名乗った
- 切りかかるときこなくそといった
こなくそというのがポイントとなります。これは伊予の方言なんですね。
当初はこの証言をもとに犯人探しが行われたのです。最有力は新選組でした。
原田左之助が犯人か?
原田左之助とは、伊予松山藩出身の新選組隊士ですね(副長助勤)
伊予の方言をしゃべりますし、現場の状況から当初は原田左之助が犯人とされました。
前述した谷干城自身はそう信じ、戊辰戦争の際には恨みを込めて新選組組長近藤勇を斬首獄門に処しています。
しかし、これには反論もありました。
明治三年、事件は動きます。
今井信郎(のぶお)捕まる
今井信郎は1858年に生まれました、近江屋事件の時はまだ若かったんですね。今井は直心影流(じきしんかげりゅう)の師範代を務めた剣の達人でした。近江屋事件と同じ年に見廻組(新選組と違い”幕臣”で構成された京都の治安維持部隊)に入ります。
明治3年に龍馬暗殺の嫌疑をかけられると伝馬町の牢で取り調べを受けました。そこで龍馬暗殺のことを自白、しかし自らは見張りで手は下していない、実際に手を下したのは見廻組組長佐々木只三郎だと証言しました。
襲撃した理由としては寺田屋にて龍馬が同心2人を射殺したことだとしています。
明治5年に特赦で釈放されています。
実際の犯人が捕まったことにより、坂本龍馬暗殺は解決したかに見えました。見廻組犯人説ですね。しかし、反論もありました。
谷干城が現場で聞いた中岡慎太郎の証言と矛盾していたからです。
特に結城礼一郎の記した「旧幕新選組の結城無二三(むにぞう)お前たちのおぢい様」という本の脚色の多い今井信郎像を見て谷干城は
今井信郎を売名の徒として批判しました。
とはいえ、現在見廻組暗殺説は有力な説とされています。また、今井信郎は見張りをしていたということを証言していますが、
実際に斬ったのは今井信郎の可能性もあります。剣の達人ですから、捕まった際には自らが斬ったとは言えなかったのでしょう。
残る謎、暗殺の黒幕は?
実行したのは見廻組というのが定説となっています。しかし謎も残ります。
実は暗殺を受けた時、龍馬は風邪をひいていたといいます。暗殺を受けた際、龍馬と中岡慎太郎は近江屋の二階にいたのですが、
いつもは襲撃に備えて土蔵に滞在しており、風邪をひいたので養生のために14日に近江屋の2階に移っていたというのです。
襲撃に容易な近江屋の2階に移って1日ですぐに襲撃される・・あまりに都合がよすぎます。誰かがそのことを見廻組に教えたとしか思えません。
見廻組の背後に黒幕の影が見え隠れしているのです。
西郷隆盛が黒幕なのではないかという説があります。
西郷隆盛黒幕説
西郷隆盛をはじめとした薩摩藩は、討幕の密勅をもらい幕府に対して戦争を仕掛けるつもりで暗躍していました。
それが坂本龍馬の大政奉還案で骨抜きにされてしまうのです。討幕を主張する薩摩にとって坂本龍馬は邪魔な存在でした。
当時の見廻組は薩摩藩士と交わりがあったといいます。坂本龍馬自身も薩摩藩士とは交わりがあったのでその動向を伝えたのかもしれません。
事件の前、薩摩藩邸に入らないかと言われた龍馬はその誘いを断っています。
他の根拠として、今井信郎の特赦のために運動をしたのは西郷隆盛だというのがあります。
その今井自身も西郷と官軍が戦った西南戦争においては西郷軍に参じるため鹿児島に向かっています。
「西郷にひとかたならぬ恩義を感じていたから」
こういうことから西郷黒幕説が唱えられているのですね。
半藤一利さんは大久保利通黒幕説を唱えていました。大久保利通が同じ時期京都にいたことが理由のようです。
黒幕が誰なのか、これは尽きぬ議論の種なのですね。
お読みいただきありがとうございました。