~日本国の大魔縁とならん~日本三大怨霊~崇徳上皇の怒りとは?
日本最大怨霊の一角、崇徳上皇。そのあまりの怨念に人々は恐怖を抱きました。己の血でしたためた恐ろしい手紙とは、どうして怨念を抱くに至ったのか、記事にしたいと思います。
崇徳上皇とは?朝廷へあてた恐ろしい手紙の内容
~日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん~この経を魔道に回向(えこう)す~
舌を噛み切って流した血で、崇徳天皇は呪詛の言葉を朝廷に送りました。
崩御するまで髪は伸びっぱなし、爪は伸ばしっぱなしで恐ろしい容貌だったといいます。
崇徳上皇とはどんな人物かというと、元永2年(1119年)の生まれで、日本の第75代天皇です。
日本の三大怨霊の一角で、古来より恨みを持って亡くなった上皇ととして有名でした。
上皇は配流(断罪されて遠い地方に流される)先の讃岐で亡くなります、
死因は暗殺とする話もありますが、
一体何がそこまで上皇を追い詰め、呪詛をかけるまで恨ませたのでしょうか。
まずは、崇徳上皇の人生を追ってみましょう。
崇徳上皇の生涯~不運な天皇~
崇徳上皇の父は鳥羽天皇で5歳で天皇となったといいます。
(ここからは崇徳天皇と表記します)
鳥羽天皇は上皇となり、院政を開始しました。
高校で習うやつですが、院政とは簡単に言えば天皇に位を譲った上皇が
自ら政治を行うものでしたね。白河上皇が始めたものだとされます。
理由としては、貴族の荘園が増えるにつれて国庫のたくわえが少なくなったので(税金が取れないので)
上皇自身が個別の財力を得るために始めたものだそうです。
ということはこの頃は天皇より上皇のほうが力が強かったということですね。
そのことが波乱を生むことになります。
鳥羽上皇が寵愛している藤原得子という女性がいたのですが、
鳥羽上皇は得子との間の子供、のちに近衛天皇となる人ですね、この人を即位させるために
強引に崇徳天皇に譲位を迫るのです。
譲位とは天皇の位を譲ることです。
崇徳天皇はしぶしぶ譲位しますが、弟が天皇では上皇として院政をふるうことはできないので
これは崇徳天皇にとっては屈辱だったと思います。
(崇徳上皇に戻します。)
崇徳上皇は譲位して、後は和歌の世界に没頭したそうです。
政治の世界で実権を握れないので趣味の世界に没頭したのでしょうか。
そんな折、予想外の出来事が起きます。
近衛天皇が早くに亡くなってしまうのです。
その後継者を決めるべく会議がもたれました。
その時、崇徳上皇の息子の重仁親王も得子(美福門院といった)の養子に迎え入れられていたので、
重仁親王が即位する可能性もありました。
近衛天皇が即位したことで断たれたと思われた院政への道がにわかに開き始めたのです。
しかし、それは結局叶うことはありませんでした。
二条天皇への中継ぎとして、その父の後白河天皇が即位してしまったのです。
後白河天皇は皇太子にならずに天皇になった人でした。
これにより、崇徳上皇の道は暗く閉ざされてしまったのです。
また、ある出来事が起きたことで上皇の運命が一変します。それは
鳥羽法皇の死でした。
鳥羽法皇が崩御、保元の乱が勃発する
鳥羽法皇(出家した上皇を法皇という)が亡くなってしまいます。保元元年(1156年)のことでした。
崇徳上皇は見舞いに訪れますが、追い返されてしまいます。
この時、崇徳上皇は憤慨して鳥羽離宮といわれる上皇が利用していた邸宅に戻りました。
そんな中であるうわさを流されてしまいます。崇徳上皇が謀反を企てているというのです。
根も葉もないものでしたが、身の危険もあったので崇徳上皇は急いで避難します。
うわさを流したのは、崇徳上皇の政敵である美福門院らのグループだったと思われました。
白河北殿に崇徳上皇側の兵力が集まりますが、それを噂通りだったとして
後白河天皇方に襲われてしまいます。御所は焼け、上皇は落ち延びました。
一時、如意山という山に逃げますが、意を決して投降することを決めます。
前例として薬子の変で挙兵に失敗した平城太上天皇が出家して許されたことがあったので、
自らも出家すれば許されるだろうと思ったのだと思います。
仁和寺に投降しますが、その思惑は外れ、結果的に讃岐に配流されてしまいます。
当時は出家したとしても権力を失わない上皇もいたので、
崇徳上皇のことが後白河天皇方からするとやはり邪魔だったのでしょう。
天皇、上皇が配流されるのは400年ぶりくらいのことだったそうです。
崇徳上皇自身は、まさか上皇の身分で配流されるわけがないと思っていたことでしょう。
ましてや、積極的に謀反を興そうとしたわけでもなかったと思います。
この時、崇徳上皇の胸に怨念の炎がふつふつと燃え上がっていたのではないでしょうか。
配流先での生活、断られた写本の申し出
配流先では仏教に深く帰依し、五部大乗経という天台宗でいう大乗の教えを説いたとされる
五部のお経の、写本を作るなどして暮らしていました。
それを京の寺に納めてくれと朝廷に申し出ますが、それは無視されてしまいます。
上皇の身でありながら(当時の感覚としては)辺境の地へ追いやられ、
罪人という身分に貶められ、京の生活を奪われ、
今こうして作り上げた写本すらも断られる。
上皇の怒りは頂点に達しました。
「日本国の大魔縁とならん。」
それはこの時に発せられた言葉だったのです。
上皇は朝廷を、日本を呪って亡くなりました。
崇徳上皇が亡くなってすぐは後白河天皇はじめ、朝廷も崇徳上皇の死を無視したそうです。
しかし、その後社会的な不安が高まるにつれて崇徳上皇の怨念が意識されてきました。
実は崇徳上皇という諡号(死後に贈る名)もこの時につけられたものだったのです。もともとは違う名前でした。
そして陵が建てられ、それは今、白峯神宮という名で呼ばれています。
朝廷も崇徳上皇の怨念を鎮めようと躍起になったのですね。
皇を取って民とし、民を皇となさん、崇徳上皇の呪詛は実現した?
ここまで、平安時代に日本で起こった怨念にまつわる話をしてきましたが、
ここに一つ興味深い真実があります。
崇徳上皇の呪詛の中に、皇を取って民とし、民を皇となさんという文言があるのですが、
これは実現しているのではないかと言われているのです。
何を言っているのかおわかりでしょうか。
そうです、鎌倉幕府をはじめとする武士階級の台頭です。
鎌倉時代は1192年もしくは1185年に始まったとされているので、
崇徳上皇が亡くなってから100年とたたずに鎌倉幕府は成立したこととなります。
1221年には後鳥羽上皇が敗北した承久の乱も起こっています。
この戦で後鳥羽上皇は隠岐へ流されてしまいました。
武士が勝ち、上皇を断罪し、配流したのです。
まさに皇を取って民とし、民を皇となさんといったその状況が
実際に起こってしまったわけですね。
崇徳上皇が大魔縁と呼ばれる所以です。
やがて崇徳上皇は三大怨霊の一角とされました。
崇徳上皇の呪詛は実現したのかもしれないという話でした。
まとめ~百人一首77番目の歌と共に
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」
百人一首の77番目の歌です。
意味は、「岩にぶつかった急流がまた一つになるように、あなたと別れても、もう一度会いたいと思う。」
というようなものです。
この記事では日本三大怨霊としての崇徳上皇とその人生について書きましたが、
崇徳上皇は和歌に長けていてその歌は百人一首にも採用されています。
怖いイメージだけが先行する崇徳上皇ですが、
そういういろいろな面も知っているとまた違った見え方ができます。
当たり前ですが、崇徳上皇も当時、実際に生きていた人ですので
一面的な見方だけでは理解できません。
怨霊という見方だけではなく、
いろいろな見方もあるというのを知っておくと
歴史の理解もより深まるのではないでしょうか。
お読みいただきありがとうございました。