豊臣秀頼の正室 千姫の最後とは
千姫とはどのような人物か?
千姫とは江戸幕府2代将軍で家康の息子である徳川秀忠とその正室のお江の子であり、天下人豊臣秀吉の息子の秀頼の正室となった人物です。
7歳で豊臣家に嫁ぐと1615年には大阪城は夏の陣で落城、夫の秀頼、その母の淀殿も自刃してしまいます。
しかし千姫は大阪城を脱出し、坂崎出羽守直盛が発見し、茶臼山の家康のもとへ届けられたそうです。
大阪城落城後は本田家に嫁いだ
1年後千姫は姫路新田の藩主本田忠刻(ただとき)のもとへ嫁ぎました。
姫路城で幸せに暮らしていたそうですが、そんな忠刻にも1626年に死に別れてしまいます。
この時忠刻は31歳で結核が原因でした。
そのあとは江戸に行って竹橋のほうに住み、その際には時の将軍徳川家光に厚遇されたそうです。
また、家光の子である徳川重綱の養育を任されて、そういうことをしていたみたいです。
また千姫は忠刻が亡くなると天樹院と名乗り仏門に入り、70歳くらいで没したそうです。
千姫、淫行伝説とは
忠刻は結核が原因で亡くなったと前述したましたが、異説がありまして、
それは千姫の多淫が原因というものです。
それで元気がなくなって早死にしてしまったというのです。また、夜な夜な男を御殿にあげてはことに及び、
用済みになった男を切り殺して井戸に投げ入れていたといううわさもありました。
しかし、これは根拠もない話で千姫は晩年は仏門に入り貞淑に暮らしていたので、この噂はガセだということです。
千姫キリシタン説
千姫は隠れキリシタンであるという説があります。
大坂夏の陣で千姫は生き残りましたが、それを見つけたのは坂崎直盛でした、ここであるうわさがあるのですが。実は
その際には千姫を見つけたものを千姫と結婚させるという約束を家康はしていたのですしかし、前述の通り千姫は坂崎直盛とは結婚していませんよね。
それは坂崎がキリシタンであったからで、キリシタンとの関係を断ちたかった家康の思惑があったというのです。
しかし千姫は隠れて信仰を続けていたとかでその墓の法名には隠れ十字が入っているとかいないとか。
千姫の墓はどこ?
茨城県は常総市のほうに弘経寺というお寺さんがあり、そこには千姫の墓があるそうです。
また、京都は知恩院のほうにも千姫の墓があります。さらにさらに東京都文京区の伝通院にも千姫の墓があります。
いろんなところにお墓があるんですね。弘経寺のほうは千姫が落飾する際に(尼さんになること)菩提寺と決めていたのでなくなった際には髪を治めたそうです(しかしその後の調査で遺骨が出てきたそうです。)
伝通院のほうは徳川家の菩提寺なのでそこに埋葬されたということです。
歴史上の人物にはお墓がたくさんあってどこが本当なの?と思うことがありますが、千姫もそうだったんですね。
ではまとめたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。
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