義民・佐倉惣五郎が江戸の人に知られるようになった理由
- 佐倉惣五郎とは何をした人?
- 将軍家綱への直訴
- 当時は厳しい時代だった
- 佐倉惣五郎の怨念と噂が広まった理由
佐倉惣五郎とはどんな人?
佐倉惣五郎とは通称であり、本名木内惣五郎といいまして。
下総国佐倉藩領公津村の名主(江戸時代の村役人)だったといわれています。
江戸幕府の資料にその名はありませんが、村の名寄帳(年貢とかのための台帳)にはその記載があるようです。
当時、義民と呼ばれる、藩主などの圧政を訴える農民がいたのですが、佐倉惣五郎はその代表的人物と呼ばれています。
東叡山参詣での家綱への直訴
当時、佐倉藩の藩主は堀田氏が行っていましたが、過剰な年貢の取り立てなど圧政を敷いていました、
公津領の名主であった木内惣五郎は藩主の圧政を訴えるため、東叡山寛永寺に参拝している途中の将軍家綱に直訴しました。
直訴の甲斐あって堀田氏の圧政は終わりましたが、しかし、惣五郎自身は磔刑に処され、また妻子も処刑されました。
圧政をやめさせたのに、自身が亡くなってしまうのは悲しい話ですね。
しかし、この話は幕府側の資料には記載がないらしいです。
当時は厳しい時代
士農工商といいまして、農工商の身分は士の下とされ搾取されていました。
具体的には切り捨て御免(実際は江戸後期などは簡単に町人を切ったりはできなかったようですが。)、名字帯刀の特権などです。
また、江戸時代を通じて多くの災害や飢饉が起きました。富士山の大噴火(1707年)、享保の大飢饉、(1732年)、天明の大飢饉(1783年)などです。
そのつど農民の生活は破壊され、厳しい年貢の取り立てなど苦しい生活を強いられていたのです。
そんな土壌があり義民の伝説が生まれていきました。
士農工商って・・ 最近はあまり使われなくなった士農工商の身分制度、もとは古代中国の歴史書から中江藤樹(江戸初期の儒学の学者)が支配階級の士と被支配階級の農工商を分けたもの。農民は町人に比べて下とみられることもあったが、制度上の身分差はなかった。
惣五郎の怨念とは?
佐倉惣五郎は妻子も殺されたのを恨み、怨念になったとうわさされました。
そして実際に堀田氏は改易(身分とっちゃうこと)されました。
当初はただのうわさでしかなかったのですが、
後々、堀田氏の分家筋の人が佐倉藩に入った際に、惣五郎を祀ったので怨念は本当だったんだと信憑性が一気に増したそうです。
当時の人は怨念を信じていたのですね。
伝説化していった経緯
惣五郎の話は後々いろんなところで作品化されました。
それが伝説が広まる原因になったのだと思います。
具体的には「地蔵堂通夜物語」
江戸で上演された「東山桜荘子」などは話題になったらしいです。
そして義民の代表とみられるようになっていきました。
いつの時代も正義のヒーローは人気ですもんね。
読んでいただきありがとうございました。
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