2022年11月30日

由比正雪の乱(慶安事件)とはなにか?そのきっかけから、その後の影響まで

投稿者: のんきまる
  • 由比正雪とはどのような人物か
  • 計画の概要
  • 幕府に衝撃を与えた理由
  • その後の幕府の対応

由比正雪とはどのような人物か

まず生まれはよくはわかっていません、駿河の国に生まれたようなのですが由比の染物屋の息子だったり、浅間宮ケ崎の岡村弥右衛門の息子だといわれたりします。江戸に出てくると、楠木正成の子孫を名乗る楠不伝という人に軍学を学びます(楠流軍学)。そして楠不伝の跡を継ぎ楠流軍学をたくさんの教え子たちに教えました(当時3000人くらいいたらしい)。

慶安事件(由比正雪の乱とは)

慶安4年に起きたことから慶安事件とも呼ばれるこの事件。首謀者は由比正雪のほかに、丸橋忠弥などがいました。計画はまず丸橋のほうが江戸は小石川の火薬庫に火をつけて、パニックになってるうちに江戸城を占拠する。また、由比正雪のほうは駿河で蜂起し久能山に押し入り金銀を奪取するという計画でした。しかし、計画は事前に発覚してしまい、丸橋忠也は江戸のお茶の水でつかまり、由比正雪のほうは駿府の梅屋旅館というところを囲まれ自殺しています。(丸橋忠弥のほうは鈴ヶ森で刑死)

計画をした理由は、当時浪人の数が多くその浪人を救済すること、また、当時酒井忠勝が大老だったのですが、その酒井忠勝の政治の無道を糾弾するといったような意図があったようです。また、この時は将軍が家光から家綱に代わる代替わりの時期でそのごたごたにつけこむといったような狙いもあったらしいです。

幕府に与えた影響

この事件で幕府が震え上がった理由は、前述しましたが当時浪人の数がすごくいて、40万人を超えていたそうなんです。その浪人らがこのクーデターに参加すれば幕府からすればとんでもない脅威となることは間違いないですよね、事前に発覚したので事なきを得ましたが、幕府が終わる可能性すらあったわけです。これを機に幕府は浪人があまり出ないようにする対策、具体的には末期養子の許可などを行いました。また政策も武断主義から文治主義に代わっていくことになりました。

末期養子とは・・・

当時後継ぎがいない際はその家は取り潰しのような形になっていました。そうなったらその家の家臣たちは浪人にならざるを得ませんよね。なので、幕府は後継ぎがいなくてどうしようもないよというときは養子をとることを許可したのです。

本筋とは関係ないですがエピソードを

丸橋忠弥は槍の達人だが・・

丸橋忠弥はお茶の水で最終的には捕まりましたが、捕縛される際のエピソードとしてこんなものがあります。

槍の達人として有名でその際は屋内にいたらしいんですが、だれも踏み込めなかったらしいんです。そこで一計を案じた人がいて「火事だ火事だ」とうそを言って、それに騙された丸橋忠弥が外に出てきてお縄にかかったらしいです。

徳川頼宜との関係

由比正雪が協力者を募る際に、「自分は徳川頼宜(紀伊徳川家の初代)様から扶持をいただいている。」という話をして、”クーデターはお墨付きをもらっている”のだと周りをその気にさせました。しかし、由比正雪自身はのちに遺書で「あれは嘘だった」と自ら否定しています。

しかし、こんな話もありまして。

由比正雪の遺品の中に徳川頼宜の判が押してある書状が見つかり、それを時の大老酒井忠勝が紀伊藩邸に持っていき徳川頼宜に見せ「こんなものがあっては困る」とその場で焼いてしまいました。するとその場にいた小姓のうち一人が黙って切腹をして果てました。そのあとその小姓の遺族は紀伊藩で重用されたそうです。

本当はどうだったんでしょうか。

比正雪の乱は幕府を震撼させた事件だった。そしてそれは武断政治から文治政治に切り替わる際の過渡期の事件でもあった。

お読みいただきありがとうございました。

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