シャクシャインはなぜ戦いを起こしたのか?騙し討がきっかけ?
- シャクシャインとはどのような人物か
- いつ頃起こった戦いだったのか
- 最後はだまし討ちで殺された?
- 奇しくもこの出来事でアイヌへの搾取が進んだ?
シャクシャインとは?
江戸時代に今の北海道のあたりにいた5大勢力のうちの一つメナシクルの家老をやっていた人物です。
当時メナシクルはハイクルという勢力と争っていたのですが(オニビシというハイクルの頭の部下をシャクシャインが撲殺したから戦いが起こった)、
そのさなかにカモクタインというメナシクルの惣大将がやられてしまい、代わりとしてシャクシャインが惣大将となりました。
後述しますが、歴史上ではシャクシャインの戦いで有名な人物で、この争いによって松前藩ないし和人によるアイヌの支配がどんどん進むこととなりました。
何故重要なのか?→アイヌによる近世期最大の反乱
寛文9年、西暦でいうと1669年に起きたその戦いは、和人に対して不満のたまっていたアイヌ民族の近世期最大の反乱でした。
シャクシャインが当時あったアイヌの勢力をかき集め、当時その地を治めていた松前藩に対して戦いを開始し、準備不足だった松前藩側である和人の死者数は
273人を数えるほどのダメージを与えました。(または、355人)
戦いが起こるまでの経緯
当時、アイヌの勢力間での争いがありました。シャクシャインが属していたのは前述したようにメナシクルという勢力だったのですが、ハイクルという勢力や、シュムクルなどの勢力と争っていました。
ハイクルの首長オニビシがシャクシャイン側に殺され、その後継者が松前藩に助けを求めに行くのですが、松前藩は双方の対立が深まることを嫌い、つれなく断りました。
そこで運命のいたずらなのでしょうか、その後継者が病気になってしまい、帰路亡くなってしまうのです。
これを松前藩側の毒殺であると見たシャクシャイン側はほかのアイヌ民族に声をかけ、戦いが起こることになったのです。
また、商場知行制などの政策による松前藩側の搾取により、もとよりアイヌ民族側には不満がくすぶっていたのです。
それが前述の一件で爆発してしまったのですね。
商場知行制・・ 松前藩は幕府からアイヌ交易の独占権を保証されていた。上級家臣に場所、商い場という地域のアイヌの交易権を知行として与えた。これによりだんだんアイヌは不等価交換などの不利な状況に置かれていった。
戦いが起きてから・・謀殺
幕府は松前藩の一族である松前泰広を下向させ蝦夷征伐に当たらせて、弘前藩にも命じ兵を出させました。
シャクシャインが首謀者であるので、松前藩側は和睦をすると見せかけてその席でシャクシャインを謀殺しました。そして戦いは終了するのです。
もともと松前藩側の搾取的な政策のせいともとれる戦いなのでなんとも残酷な最後でした。この戦いの後はより一層和人の支配が蝦夷地に及ぶようになります。
その後のシャクシャイン
現在ブロンズ像のシャクシャイン像が同新ひだか町花園地区に立っているそうです。またシャクシャイン祭りというのも9月に静内で行われているそうで、
いまでも彼のことを北海道の人は語り継いでいるのですね。
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