禁教令のきっかけ?有馬晴信が処罰された岡本大八事件とは
江戸時代、キリスト教は禁止され信仰をもつ人たちは隠れキリシタンとして過ごす以外ありませんでした。
そのきっかけとなったともいえる岡本大八事件という事件があります。
事の顛末はどのようなものなのか記したいと思います。
- 江戸初期の事件
- 禁教令(キリスト教の)のもととなった
岡本大八事件の概要
岡本大八とは本田正純の家臣で洗礼名をパウロと言います。
どういう事件かというと、肥前野江藩主でキリシタン大名の有馬晴信という人が関連してきます。
この事件は1612年におきた事件なのですが、
有馬晴信は当時、領地の一部を失っており、旧領の回復のために運動していました。
それを知った岡本大八が晴信に近づき
旧領回復をあっせんすると嘘をつき、晴信から大量の金銭を受け取っていたのです。
当然これらのことは公のもとにさらされ、岡本大八は牢にいれられるのですが、
なんと、その岡本が有馬晴信による、長崎奉行長谷川左兵衛謀殺の計画を漏らすのです。(マードレ・デ・デウス号事件での叱責を恨んでのこと。)
結局、有馬晴信は領国召し上げのち斬首、岡本大八は火刑に処されてしまいました。
何故、禁教令のきっかけに?
当事者がどちらもキリシタンだったこともあり、
これらをきっかけに徳川家中のキリシタンを調査しました。
すると、なんと予想以上にたくさんいたんですね。
家臣の中に14名のキリシタン、奥女中にも3名信者がいました。
これらのことを重く見た幕府は1612年に禁教令を発布します。
隠れキリシタン※が生まれるきっかけにはこのような事件の影響もありました。
しかし、1612年の禁教令では・・
1612年の禁教令ではそこまで、厳しいものではありませんでした。
下京のカーサ(スペイン語で家)と教会はその存在を認められていたのです。
このように一部の信者は信教を許されていました。しかし
1614年の全国禁教令では、いよいよ厳しいものとなります。
それにはこれまた別の事件が関係しているのですが、それは別の続きの記事に書きたいと思います。
※正しくは1873年の禁教解除の高札撤去ののちも教会に復帰しない人たちを隠れキリシタンと言い、江戸時代の禁教時代のキリシタンを潜伏キリシタンと言います。
お読みいただきありがとうございました。