壬申の乱!天智天皇と天武天皇は本当に兄弟なのか?
- 壬申の乱とは何か?
- 天武天皇と天智天皇の年齢
- 天武天皇の妃
壬申の乱とは
古代最大の内乱と呼ばれています。
天智天皇(大化の改新の中大兄皇子)の後継者争いとして天智天皇の弟の大海人皇子(のちの天武天皇)と子供の大友皇子が争いました。
672年、壬申の年に起きたことから壬申の乱と呼ばれます。
乱の流れを説明すると、もともと天智天皇は大海人皇子に皇位を譲る腹積もりで死の床においてもその旨大海人皇子に伝えていましたが
大海人皇子は身の危険を感じ吉野山に逃れます。
その後、天智天皇は息子の大友皇子にだんだん跡を継がせたくなってきたのか、大海人皇子もそれを敏感に感じ取り
天智天皇が崩御(天皇が亡くなること)すると、大海人皇子は行動を起こし、美濃に行って兵を集めます。
大友皇子のほうも兵を集めますが大海人皇子に及ばず、同年瀬田川の戦いにて大勢は決します。
内乱は大海人皇子の勝利に終わりました。
兄弟じゃない説の根拠とは?
天智天皇とのちの天武天皇はともに舒明天皇と皇極天皇の息子であるという点で同じであり、2人が兄弟であるというのは周知の事実です。
さて、どうして兄弟でないとの話が出てくるのでしょうかそれは大方2つの理由によります。
一つは二方の出生、そしてもう一つは天武天皇の妃に関することです。
深く見てみましょう。
天智天皇、天武天皇の生年について
天智天皇は626年に生まれたとされます。舒明天皇13年時点での年齢が書いてあるのでそうと分かります。(日本書紀)
では、天武天皇はいつ生まれたのでしょうか、これは実はよくわかっていません。
日本の正史である日本書紀には書かれていないのです。
天武天皇の年齢がはっきりと書かれているのは鎌倉時代成立の「一代要記」や「本朝皇胤紹運録」などです。
それによると生年は622年や623年になります。これは天智天皇の生年の前です。
兄、弟が逆転してしまいますね、これがもとに兄弟ではないとの説が提唱されました。
天武天皇の妃
天武天皇の跡を継ぐのは皇后である持統天皇ですが、実は持統天皇は天智天皇の娘なんですね。
また、そのほかにも天武天皇の妃に天智天皇の娘である大江皇女(ひめみこ)や太田皇女新田部皇女(にいたべのみこ)などがいます。
自分の弟に娘を嫁がせるでしょうか?というのがもう一つの根拠なんですね。
昔の人の感覚は今の人と違うとは思いますが、これを聞くとなるほどと思ってしまったりもします。
実際どうなのか?
先ほど一代要記のことを書きましたが、実はその記述では天智天皇のほうが年上になっているんですね。
年齢説のほうは、古代の資料と中世の資料が食い違っていることから起きるのことだということです。
スッキリしない話ですが、結論としては天武天皇の年齢はわからず、兄弟であると考えるのが正当なようです。
まぁ兄弟じゃないと考えるのも面白い説だとは思いますが
まとめ
真偽は不明ですが、話のタネになりそうですね。
お読みいただきありがとうございました。
<キーワード>
壬申の乱 天智天皇 天武天皇 瀬田川の戦い 持統天皇
・本記事ゆかりの地
- 宮滝遺跡・・壬申の乱の起点であり、大海人皇子が移り住んだところ(奈良県吉野郡吉 ~ 野町宮滝)