なぜそこに、どのような由来で?全国各地にある庚申塚の謎
皆さん、道の端に立っている石の像を見かけたことはないですか?
それは庚申塚かもしれません。
沖縄を除く全国各地にある庚申塚、庚申塔とも言いますが、これらはどのような過程でつくられ、伝えられてきたのでしょうか、その謎を追います。
庚申信仰とは
山川の歴史小辞典には次のようにあります。
60日ごとにめぐってくる庚申の日に、共同飲食しながら徹夜して語り明かし、夫婦の交わりを禁じるなど各種の禁忌が伴う信仰 山川出版社 山川日本史小辞典 P322
庚申とは十干十二支(じっかんじゅうにし)という時間や暦を表すために中国で生まれたものの内、”かのえ”の”さる”を指すものです。
かのえとはきのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと、の内、7番目のものです。
さるはわかりやすいですね、今でも「今年は○○年だね」などと言います。
ね、うし、さる~のさるですね。
十干十二支は60で一周します。60歳を還暦というのもこの60でひと巡りというのがもとになっています。
さて庚申信仰についてですが。
庚申信仰は中国の三尸説(さんしせつ)がもととなっているといいます。
三尸説とは道教における考え方なのですが、その内容は昔中国にあった晋の葛洪(かっこう)という人の書いた「抱朴子」(ほうぼくし)に書かれています。
人間の体内には3匹の虫がいて、(それぞれ上尸、中尸、下尸、だから三尸説というのですね。)それらは人間の早死を望んでいます。
それらが庚申の日に人間の体内からはい出し、人間の寿命をつかさどる天帝にその人間の悪事を告げるらしいのです。
そのため人々は庚申の日には寝ずに過ごすようになりました。これを守庚申(しゅこうしん)といいます。
この考えは日本には朝鮮半島経由で8世紀ころ、時代区分でいうと平安時代に入ってきたのではないかと言われています。
その後、仏教の考えなどと交わりお坊さんの手で「庚申縁起」(こうしんえんぎ)が記され、江戸時代に広まる庚申信仰の基本的な形ができてきます。
「庚申縁起」とは庚申信仰の由来をその中に含むもので、庚申塚に刻まれる青面金剛(しょうめんこんごう)を帝釈天の使いだとしています。
人々は講を組織し、庚申待ちを行いました。
庚申待ちというのは、最初に引用した徹夜で語り明かす行為です。
3年それを継続したときに、庚申塚、または庚申塔が建てられました。
全国各地にある庚申塚とはそのようなかつての信仰の目に見える形の遺産なのですね。
庚申信仰独特の神、青面金剛とは?
民間信仰とは、ある種自然発生的に生まれた特定の教祖などのいない宗教を指しますが、庚申信仰は日本の民間信仰の中でも有名なものだと思います。
そんな庚申信仰には不思議なところがいくつかあります。まず一つはその祀る対象です。
庚申信仰において建てられる庚申塚にはいくつかのモチーフがあるのですが、代表的なものが青面金剛と呼ばれる神様です。
これは前述した「庚申縁起」にて確立したものだと思います。
実はこちらの青面金剛、インド由来の神様ではありません。そもそも仏教の起こりはネパールなので、その近辺で信仰されていたバラモン教や、ヒンドゥー教の神様を
仏教の守護神として取り込んでいたりします。帝釈天などの有名な神様もインド由来の神様です。
しかし、青面金剛にあたる神様はインドのほうにはいないのです。
その始まりは、マハーカーラというヒンドゥー教の神様の図像が説明なしで伝わった際に、青面金剛という神様として信仰されたことに始まります。
実はマハーカーラという神様は仏教の真言宗では護法善神として信仰されている神様で全く別物です。
と、このように青面金剛という神様は不思議な由来を持つ神様なのです。
仏教、神道、修験道?いくつかある庚申信仰の謎
前述したようにもともと庚申信仰の起こりは道教です。それが日本に入る過程で、仏教の考え方と結びつき、青面金剛を崇拝するようになりました。
しかし、先ほども記したように庚申塚のモチーフは青面金剛に限りません、それは庚申信仰がいろいろな宗教と結びつき、進化してきたからです。
神道では山崎闇斎(あんさい)が申の日にちなんで、猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀る庚申信仰を説きました。
山崎闇斎 (1619~1682)京都生まれ 江戸時代の思想家。朱子学の一派である崎門学(きもんがく)の創始者、また、神道の一派である垂加神道の創始者。
猿田彦とは天孫が天下りした際に道案内を務めた神様ですね(天孫降臨の神話のことです、宮崎県にある天の逆鉾(あまのさかほこ)で有名ですね)。
また、修験道でも独自の庚申信仰が生まれました。
そして、庚申塚と言っても様々なモチーフのものが作られます。
庚申と文字を記したもの、山王信仰と交わりまた、申の日にかけて三猿を描いたもの、青面金剛を描いたものなどがあります。
また、村の境界にある塞(さい)の神と同一視されたことから村の境界に置かれたりしました。
歴史を経る中で様々なものと習合し、複雑な形で進化してきた庚申塚、このような過程を知ると、あなたの住んでいる近くの庚申塚を見る目も変わってくるのではないでしょうか?
まとめ
このように、庚申塚とは歴史的に見て特異な進化を遂げてきました。
あなたの街にもきっとあると思います。見かけた際にはこの記事の内容を思い出していただけたら嬉しいです。