信濃善光寺異聞~本尊の行方と物部守屋の首~
牛にひかれて善光寺参りといわれるくらい有名な場所として古来から参拝客が絶えない善光寺ですが、いくつか不思議なエピソードも伝わっています。そんな、善光寺のエピソードを紹介したいと思います。
善光寺の由緒
善光寺は長野県長野市にある古刹で、無宗派の寺です。
本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来で、一生に一度は善光寺参りと言われました。
本尊は絶対秘仏で、七年に一度の御開帳も見れるのはお前立と言われるものです。
年間の参拝者数は年によって変動はありますが、600万人ほどと言われていて
最近は外国人の参拝客も多いそうです。
仲見世通りなどもありお店もにぎわっているので、観光客の人もうれしいですね。
また、本堂は1707年に再建されたもので、国宝に指定されています。
見どころたくさんの善光寺ですが、どういう由緒で始まったところなのでしょうか。
伝説では、善光寺の本尊は百済というかつて朝鮮半島にあった国の、聖明王から日本に渡ったもので、
それを廃仏派の物部氏が難波の堀江に捨てたのを、本田善光(ほんだぜんこう)が拾い崇めたのが始まりと言われています。
最初は元善光寺に、その次に今の善光寺に移ったそうです。
ただ、上記の話は史実としてはあまり有力視されておらず、実際は地方豪族の金刺氏(かなさしし)が寺の創建にかかわったのではないかと言われています。
善光寺は全国各地にあった郡寺のひとつであるという説です。
実は古い時代の善光寺縁起には本田善光の名はでてこないのです。
ではなぜ善光寺と呼ばれるのかといえば、それは渡来人の祖、百済王善光からとったのでは?と言われています。
不思議な善光寺の由緒でした。
物部守屋の首と守屋柱
本堂の奥の内々陣の一つの柱がねじれていて、それは七不思議のひとつと言われています。
伝説によると、その柱の下に物部守屋の首が埋まっているというのです。
前述しましたが、物部守屋の物部氏は廃仏派だったといわれていて、
善光寺の本尊を難波の堀江に捨てたのだといわれていました。
その後、蘇我氏と争い、討ち滅ぼされてしまうのですが、その守屋の怨念を封じるために
柱の下に守屋の首を埋めたというのです。
歪んでいるのは物部の守屋の怨念がそうさせたのでしょうか。
この柱については弁慶が曲げたという別の伝説も伝わっていていますが
どうして曲がっているのか興味は尽きませんね。
善光寺の本尊は越後に行った?法音寺の善光寺如来の謎
善光寺のあった場所は川中島の近くにあったので、上杉謙信と武田信玄が戦った
川中島の戦いに巻き込まれました。
その際に寺は焼けてしまったといいます。しかし本尊は別の場所へ移されました。
定説では武田信玄により、甲斐善光寺へ移ったとされるのですが、実は上杉謙信が
別の場所に移したとする説があります。
それが米沢市の法音寺です。
法音寺は真言宗豊山派の寺で、上杉家の菩提寺です。
このお寺に善光寺如来尊像とよばれる仏像があるのです。
法音寺のホームページを読むと説明が書いてあります。
天文20年(1551年)信州中野城主高梨政頼が信濃善光寺のご本尊を上杉謙信に奉じました。
そして謙信は春日山に如来堂を建ててご本尊をそこに安置しました。
慶長6年(1601年)、上杉家の国替えに伴って善光寺如来尊も米沢に移されます。
明治に入り、法音寺が歴代藩主御廟所のある現在地に移転し、
明治9年本丸の御堂が解体されて謙信の遺骸が歴代御廟所中央の現在地に遷座されたとき
同時に善光寺如来尊、泥足毘沙門天尊は法音寺に移されたそうです。
前述したように長野善光寺の本尊は絶対秘仏とされ決して見ることはできません。
それも何か意味があるのではないかと想像してしまいます。
そんな本尊の謎でした。
善光寺本尊の祟りとは?戦国時代各地に移された仏像
山梨に、甲斐善光寺とよばれるお寺があります。
川中島の戦いの際に、善光寺の本尊が焼け出されるのを防ぐため武田信玄が
本尊を移した場所だとされています。
その後、武田氏は長篠合戦をはじめとして、天目山の戦いで武田勝頼が亡くなることにより滅亡してしまいます。
武田氏が滅んだあとは、織田信長の嫡男、織田信忠によって岐阜の善光寺に移されたり、
その弟、織田信雄によって尾張国の甚目寺(じもくじ)に移されたりしました。
信雄によって家康に本尊が譲られると、遠江国の鴨江寺に移されましたが、その後、家康は甲斐善光寺に
返してしまったそうです。
家康はこの頃、腫れ物に悩んでいて、それを信濃善光寺如来の祟りではないかと思ったらしいのです。
思えば仏像を手にした武将、大名はほとんど何らかの形で滅んでいます。
武田信玄は上洛の途上で没しましたし、勝頼は天目山の戦いで敗れ亡くなり、武田氏も滅亡しました。
信忠は本能寺の変で亡くなりました。
例外として家康と信雄は寿命を全うしましたが、信雄は信長の息子でありながら天下人となれませんでしたし、
家康は腫れ物に悩んでいました。
本拠をはなれた信濃善光寺如来が自らを連れまわす大名たちを祟ったのでしょうか。
その後、伏見地震で崩落した京の大仏の代わりとして秀吉により方広寺に移されますが
その後、秀吉は病にかかってしまいます。
結果的に秀吉は亡くなってしまいますが、善光寺如来が信濃に戻ることが決まったのは
秀吉が亡くなる一日前だったそうです。
何か因縁のようなものを感じますね。
戦国時代に各地の大名に振り回された善光寺如来の不思議な話でした。
まとめ
有名なお寺も調べてみると面白いことがたくさんわかります。
是非、皆さんも調べてみてください。
お読みいただきありがとうございました。