なぜ司馬遼太郎はノモンハン事件を書かなかったのか?
- ノモンハン事件とは
- なぜ事件と呼ばれたのか
- 日本は大敗した?
- 司馬遼太郎氏はなぜノモンハンを書かなかったか
ノモンハン事件とは
1939年5月に満州国とモンゴル人民共和国の国境地点で起こった日本軍とソ連・モンゴル両軍との戦争です。
双方2万ほどの被害をを出した大規模なもので太平洋戦争の2年ほど前に起きたことから太平洋戦争の前哨戦ともいわれます。
ソ連側からの呼称はハルハ河の戦いといいます。
1次と2次に分かれていて、1次の戦いでは空中戦で奮闘し制空権(空の戦いでは優位だった)を得るなど決して一方的な負け戦ではなかったですが、
2次の戦いでは兵器の圧倒的な差や、兵站を無視した日本軍の戦い方はソ連の近代的な兵器に歯が立たず敗北、
9月15日モロトフ外相と東郷茂徳(しげのり)駐ソ大使の間で停戦協定が結ばれました。
日本軍の主力は満州国(今の中国東北部)にいた関東軍であり、その作戦参謀たちの粗末な作戦など後世話題になることが多いです。
関東軍とは・・ 関東州(遼東半島という中国の半島の日本の租借地←強制的に借りてるところ)の防備と南満州鉄道(東清鉄道南満州支線、長春から旅順まで)の沿線を守るための日本軍部隊、 司令部は旅順、奉天、新京と移った。 満州国建国後は、満州国の主要な戦力となった。
なぜ事件と呼ばれるのか
前述したように、ノモンハンの戦いは決して小規模な戦いなどではなく戦争と呼んでも遜色ないものです。
しかし事件と呼ばれたのは、これははっきりと言えることではないですが、この戦争が戦線布告なしに始まったことが原因とされています。
またこの戦争は関係諸国の間に報道規制がなされており、「隠された戦争」または「忘れられた戦争」などと言われることもあります。
日本は大敗したのか?
3500の遺骨がホロンバイルの草原に眠っている・・・
よく言われるのは、ノモンハン事件においての関東軍の悲惨な戦いと敗北、作戦参謀たちの粗末な作戦などです。
前述したように、ノモンハン事件は1次と2次に大きく分けられ、1次の際は制空権を得るなど奮闘しました、また、夜襲作戦はソ連兵を大きく弱らせ効果的だったといわれています。
しかし、2次ではソ連の近代兵器に歯が立たず敗北を喫する形となりました。
結局有利な形で停戦協定を結ばされてしまったので敗北をしてしまったことは確かだと思います。
ただ、日本軍はソ連軍に圧倒的に蹂躙されたという話は本当かはわかりません。
被害者数という点で見るとソ連軍も、日本軍も双方2万人ほどという数字が提示されていて、ほぼ同数なのです。
これを見ると、日本軍がソ連軍に圧倒的に蹂躙されたという印象は持ち辛くなると思います。
よく日本軍は死者数が2万くらいいたという風に言われることがありますが、これは当時の新聞などでノモンハン事件のことが報じられた際に、
「靖国神社に1万8千人の人が祀られた」との報道がなされてそれが間違って広まったと言います。
ノモンハン事件では兵站の無視など負ける原因はありましたが、兵士の奮闘などで決して全く一方的な負けではなかったというのが真相だと思います。
負けた理由は?
とはいえノモンハン事件では日本軍は手痛い敗北を喫しました。
アメリカの軍事学者にA.クックス氏という人がいたのですが、クックス氏の研究はノモンハン事件について重要な示唆を与えてくれます。
その研究の中で日本軍が敗北した理由をいくつか挙げています。代表的なものを列挙してみます。
・兵站の軽視や、兵士の健康をまったく気にしない姿勢
兵站というのは兵士の食事などを管理することなのですが、日本軍は全くこれができていないかったので、それは悲惨だったと多くの書籍に書かれています。水すらもなかったので、ほとんど飢えるような状態で戦っていたそうです。また、虫がたくさんいてそのかゆみなどで気が狂わんばかりの状態だったそうです。
・夜襲作戦への固執
前述の事柄と関連してなのですが、夜襲をやたらと重要視していたようで、少ない兵力で勝つには奇襲が一番という考えだったのか、これが原因で兵士は夜も眠れず、もうこの世の地獄とはこのことかといったような有様だったようです。
・兵力の分散
本来兵力を分散させることは、戦争ではやってはいけないことなのですが。この時には兵力の出し惜しみをしていたそうで、小出しにした日本軍の兵力はロシアの圧倒的な力に次々つぶされていくような形だったそうです。
・原始的な作戦、時代遅れの武器
これは有名な話なのですがソ連の兵器に対して日本軍の兵器は時代遅れでこれも負ける原因の一つでした。
・精神論の重視
日本軍の作戦は精神主義的な面があり、これは太平洋戦争でも引き継がれていましたよね。まるで死ぬことが美学のように語られていました。この戦争では貴重な命がいくつも露と消えました。悲しい話です。
そのほかにもあるのですが(小・中隊長の未熟さ、空陸一体の攻撃ができていないかった、防御の忌避、降伏を許さず(これは死者が増えた原因か)、情報の軽視(当時粛清がロシア内で起きていたので弱いだろうとなめていた。)など)、ここでは以上としておきます。
これらのことは関東軍の中にも主張した人がいたそうでしたが、もみ消されてしまったようです。兵器の強化は報告書としてあがったそうですが、何の成長も見られないまま、2年後の太平洋戦争へと進んでいくことになります。
この戦いでの教訓を生かせなかった参謀本部・・悔やむばかりです。
なぜ司馬遼太郎はノモンハンを書かなかった?
故、司馬遼太郎氏がノモンハンを書かなかったわけ、実は司馬遼太郎先生はノモンハンを書くために取材をしていたらしいんですね。
しかし、調べれば調べるほど当時の参謀本部のことが嫌いになってやめてしまったといいます。
やめた理由は実際は本人に聞くほかないのですが、これだろうということがいくつか指摘されています。それを紹介したいと思います。
一つ目、小松原師団長日誌が見れなかった。
小松原師団長というのは当時、ノモンハンに第23師団長として駐屯していた人で、小松原師団長日誌というのはノモンハンの経緯が書いてあるとされるものです。
これは防衛庁の管理で、これを見せてもらえなかったので本が書けなかったという指摘があります。
二つ目、参謀本部に嫌気がさした
上記したことですが、参謀本部にほとほと嫌気がさしたとのことです。これは戦中の話を聞いたことがある人なら経験されている人もいるのではないでしょうか、
無責任な参謀本部に嫌気がさしてしまったのでしょう。
三つ目、須見新一郎さんに絶縁された
故、須見新一郎氏に絶縁されたのが原因とのことです。司馬遼太郎さんは須見さんを主役に話を書こうと思っていたらしいのです。
須見新一郎さんを紹介すると、昭和の陸軍軍人で、ノモンハンの戦闘に第7師団歩兵第26連隊長として参加し、奇跡的に生還した人です。(ほかに生還した連隊長が2人います。)
原因はノモンハンの取材で大本営陸軍参謀だった瀬島龍三に取材したことだったようで、なんであんなやつの話を聞くんだということだったみたいです。
司馬さん自身も瀬島龍三について「取材中、何一つ有意義なことを言わなかった」というようなことを書いていたのでそれで須見さんを怒らせてしまったのは不本意だったんじゃないでしょうか。
以上、上記のような理由で書けなくなったとのでは?と言われています。
まぁ、本当のところは司馬さん自身の胸の中ということなのでしょうか。
今回、どうして司馬遼太郎がノモンハンを書かなかったのか、というタイトルで記事を作ったのですが、その理由はその書かなかった訳に
どうやらノモンハンというものに対する一つの見方が含まれているように感じたからなんです。
あの戦争は何だったのかと考えたときに、散々取材して書くのをやめたという事実が何かを教えてくれているような気がします。
ではまとめます。
お読みいただきありがとうございました。