2022年11月12日

□大戦前夜□                ●軍部大臣武官制 軍事国家への道●

投稿者: のんきまる
  • 軍部大臣現役武官制とは何か
  • いつ、だれが制定したものか
  • その結果日本にどのような影響を及ぼしたのか

軍部大臣現役武官制とはどのような制度か

軍部大臣現役武官制とは時代によっても少し内容が違うのですが、内容は読んで字のごとく内閣を構成する軍部大臣は現役の大将などに限るという法律です。内容は単純なのですが、これが結構、国家運営において喉の奥の魚の骨のように効いてきます。さて、この法律は日本に一体どのような影響を及ぼしたのでしょうか?

内閣を組閣きない→総辞職するしかない

何故内閣を組閣できないのでしょうか?それは軍部大臣を出す出さないの判断を軍部が行えるからです。結果軍部大臣を出してもらえなかった内閣は総辞職するか、もしくは内閣を組閣できないという事態に陥り、そしてそれは政治の主導権が軍部にわたってしまうという生殺与奪の権を軍部に渡してしまうという〇滅の刃1話みたいな状態になってしまうのです。以下では具体的にそのような事態に陥った事例を挙げていきたいと思います。

軍部大臣現役武官制の弊害の例

※これは昭和の話ではありません。

大正政変(1913年)が起こる前の西園寺公望内閣が総辞職した際は、陸軍大臣上原勇作が単独で天皇に辞表を提出したことがきっかけでした。この時は帝国国防方針という軍備拡張策を打ち出した軍部と(中国で辛亥革命がおこるなどの影響があった。)財政難を理由に軍備拡張に反対した言論界などの争いの中、軍部大臣現役武官制をかさに着て強引に軍部の主張を通そうとしたものでした。これがきっかけで第一護憲運動が発生(この暴挙は憲政が侵されるものだった)結果、これは大正政変と言われる暴動にまで発展しました。

大正政変とは・・・・
護憲派の群衆が国会議事堂を囲い、警察官と衝突し、警察署や政府系の新聞社などを襲った事件。
このような民衆の意思が政局に作用するようになるのは、明治期から大正にかけての一つの特徴。

軍部大臣現役武官制誰が制定した?

軍部大臣現役武官制は1900年に山県有朋が制定しました。ちょっと意外な名前が出てきましたね。当時政府は超然主義(政府は政党からは独立した存在)に立っていて政党の動きを抑えるために制定されたものでした。また同年付近に今後の官僚主義の端緒となる、文官任用令も出されています。

超然主義とは・・・・・
大日本帝国憲法発布の翌日に、黒田清隆首相が政府は政党の外に立ちと演説したことから始まる。

2・26事件の後。復活

大正政変の後、山本権兵衛内閣は軍部大臣現役武官制を緩和し、予備、後備でも就任できるようにし、実質的に法律を無力化しました。しかし、事態は2・26事件ののちに動きます。2.26事件については別の記事に書きたいと思いますが、これも日本が軍国主義に向かっていく一つのきっかけになった事件です。ざっくり言えば陸軍のクーデターで、陸軍内ないし政府内も大きく変わりました。事件後成立した広田弘毅内閣は軍部大臣現役武官制を復活させ広義国防国家を政綱として莫大な軍事予算を計上していくことになるのです。

<雑学タイム>

山本権兵衛はむかし、ごんのひょうえと呼んでいましたが今はごんべえと呼んでいます。ごんのひょうえとは軍艦の進水式の際に、神主が祝詞用によんだのがきっかけといわれている。


さて、今回の記事はここまでですが何よりも強調したいのは日本が大戦に向かっていく過程で成立したこの法律の重要性です。まとめます。

軍部大臣現役武官制によって政府は軍部の意見を聞かざるを得なくなった。

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