2022年11月13日

古代史がよくわかる!!三種の神器とその変遷!!!

投稿者: のんきまる
  • 三種の神器とはそもそも何なのか
  • 三種の神器という名前
  • 三種の神器を必要とした理由は?
  • 源平合戦の時焼失した神器
  • 南北朝時代の混乱と三宝院賢俊の小唐櫃(こからびつ)

三種の神器とは何か

三種の神器とは神代のころから天皇家に伝わる宝で、内容は草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)です。

現在八咫鏡は三重県の伊勢神宮に、八尺瓊勾玉は東京都の皇居に、草薙剣は愛知県の熱田神宮にあるとされています。

皇位継承の際に受け継ぐことになっている宝です。

三種の神器についての不思議な話を見ていきましょう。

三種の神器、その発端

(日本書紀にも記載がありますが、これは古事記の記事です)

草薙剣はもとは素戔嗚(スサノオ)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を出雲で退治した際にその尾っぽから出てきたものです。

伝説では櫛名田比売(クシナダヒメ)を助けるために素戔嗚は八岐大蛇と戦いました。

故(かれ)其の中の尾を切りたまふ時に、御刀(みはかし)の刃毀けき。爾(ここ)に怪しと思ほして、御刀の前以ちて刺し割きて見そなはししかば、都牟羽(つむは)の大刀在り。故此の大刀を取らして、異しき物ぞと思ほして、天照大御神に白(まを)し上げたまひき。是(こ)は草那芸之大刀(くさなぎのたち)なり
                 「古事記」 武田友宏著 角川ソフィア文庫

(簡単な意訳)

素戔嗚尊が八岐大蛇の尾を切ったときに自分の刀の刃がかけた。不思議に思って尾の中を見てみると鋭い刀が出てきた。

これは普通の刀じゃないと思って、事情を説明して天照大神に献上した。これはのちの草薙剣である。

八尺瓊勾玉と八咫鏡は有名な天岩戸伝説の際に登場します。乱暴者であった素戔嗚尊のせいで天照大神は心をふさぎ天岩戸にこもってしまいます。

高天原の神々は何とか天照大神に出てきてもらおうと思金神 という知恵の神に相談し、あらゆる工夫を凝らします。この際に2つの神器は登場します。鏡は移る者の魂を呼び込み、また、勾玉は日神を誘い出す力を持ちます。

鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)を求(ま)ぎて、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に科(おを)せて、を作らしめ、玉祖命(たまのおやのみこと)に科せて、八尺勾璁の五百津の御すまるの珠を作らしめて・・・・・
・・・八咫鏡を取り繋け
                 「古事記」 武田友宏著 角川ソフィア文庫

(簡単な意訳)

鍛冶の神様と鏡の神様に命じて大きな鏡(八咫鏡)を作らせた。そして玉つくりの神様に命じて玉を作らせた(八尺瓊勾玉)

有名な三種の神器はこういう形で神話に出てくるんですね。

三種の神器が天皇家の後継者の証となった経緯

天照大神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)は天照大神の命を受けて筑紫の日向の高千穂の峯に降り立ちます(天孫降臨)。この際に天界から一緒に持ってきたのが三種の神器だったのです。

爾に日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)、天降りまさむとする時に・・・・(中略)・・・・・・・・
・・是に其のをきし八尺勾璁、鏡、及草那芸剣、・・・・・副へ賜ひて詔りたまはくは

特にその中でも八咫鏡に関しては天照大神自身だと思って、絶えず自分の手元に置いていたらしいです。

もともと神器とは呼ばなかった?

さて、この神器にはいろいろ不思議な話がありまして、その一つが神器の名前に関することです。

本来、神器という呼び方ではなかったらしいですね。事実日本書紀にはその名は出てきません。

出てくるのは宝物という記述です。神器とは後々出てきた名称なのですね。

3種類ではなかった神器の謎

三種の神器とさんざん書いてきたのですが、実は三種類じゃなかったという話があります。

実際、三種類じゃなかった時期があります。

又、大刀契(だいとけい)が三種の神器と共に皇位継承の際に受け継がれたとの記述もあります。

これを含めると4種類だということになり、1つ増えることになりますね。

昔は数も一定じゃなかったのでしょうか。

そもそも日本書紀には三種の神器の記述はない?

日本書紀という書物は、日本最古の正書(公的な機関が作った)と呼ばれるものですが、其の中にはじつは

天孫降臨の際に宝物を授ける描写がないのです。

その描写は一書(あるふみ)と呼ばれるところに書いてあります。

これは、一説によるとぐらいの意味だと思いますが、本文に三種の神器の記述はないののは驚きですね。

どうして三種の神器が重要となったのか?

三種の神器というのは皇位継承の際に受け継がれることは何度も書いているとおりですが、

そもそも皇位継承の証とされることが強調されたのは強く皇位を証明する必要性が生じる土壌があったからなんですね。

その出来事というのは、源平合戦と南北朝の争いでした。

この時、政治にかきみだされ2人の天皇が同時にたつ状況がありました。

そうするとどちらが正当か主張したくなりますよね。

その根拠とされたのが、三種の神器だったわけです。

三種の神器とは皇位継承が不確実だからこそ生じたものだったという訳ですね。

失われた三種の神器

そんな三種の神器はたびたび消失の危機に陥っています。まず草薙剣ですが、天智天皇7年 新羅(むかしの朝鮮半島にあった国)の僧侶に盗まれかけたことがあります。

その際は無事に戻ってきたらしいです。(刀の霊力で体から離れなくなって自首したらしい)

平安時代には熱田神宮が燃えることもありましたが、その際も不思議と焼失を免れています。

壇ノ浦の藻屑と消えた・・?

有名な鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」にあることが書かれています。それは1185年の場所は壇ノ浦。史上有名な源平合戦の最後の戦で平家が滅んだ戦いとして有名です。

平清盛の正室二位尼と安徳天皇は天運尽きたと壇ノ浦に入水した際に三種の神器を道ずれにしました。

その際に八尺瓊勾玉と八咫鏡は水面に浮かんでいたので見つかりましたが、草薙剣のみは海の底に沈んでしまい見つからなかったとあります。

しかし、これは天皇家にあった形代(レプリカ)のようで熱田神宮にある草薙剣は無事だったようです。

とはいえ当時鎌倉殿であった源頼朝は弟の源義経と範頼に絶対に神器を見つけ出せとの厳命をし、

これを見つけられなかった義経が冷遇された原因の一つになったとの話もあります。

八咫鏡は都合三度ほど焼け出されている?

宮中にあつた八咫鏡は3度ほど燃えています。一度は天徳4年のころ、寛弘2年のころ、長久元年のころです。

最初の2回は無事だったのですが。長久元年の火災の際には結構ボロボロになったらしく、現在では破片が残されているだけと言われています。

(もはや金の玉のようになってしまった、また、破片があるかもしれないとのことでそのあたりの土をすくったらしい。)

南北朝の動乱と三宝院賢俊

三宝院賢俊とは京都は伏見区にあります醍醐寺のかつてのお坊さんです。南北朝時代の人です。この人と三種の神器には面白いいわれがあります。

南北朝時代とは後醍醐天皇率いる大覚寺統の南朝と、足利尊氏率いる持明院統の北朝に朝廷が二つに分かれていた時をさします。

朝廷の後継者問題から足利尊氏が折れ北朝の崇光天皇が位を降り、南朝の後村上天皇一人の状態になります。

そのさなかに南朝が北朝のほうに攻め入り、戦が起きます。南朝側は戦のあと吉野に引き返すのですが、

その際に京都にあった三種の神器を一緒に持って帰ってしまうのです。

困ったのは北朝側です。新しい天皇を擁立しようにも三種の神器がないんじゃ難しい話です。その時に一肌脱いだのが醍醐寺の三宝院賢俊さんでした。

三宝院賢俊は南朝の陣地に赴くと一つの小唐櫃を持って帰ってくるのですが、その中に三種の神器が入っていたというのです。

よかったよかったこれで新しい天皇を擁立できるということなのですが、後世の我々として不思議なのは、この小唐櫃に入っている三種の神器って本物なのかということです。

おそらく本物かは怪しいものですが、とりあえず建前上三種の神器がなければまずいということでこういうことになったのでしょう。

この時代には三種の神器は2セット存在していたことになります。もはや何が何だか分からなくなってきましたね。

まとめ

ということで三種の神器にまつわる不思議な変遷をたどってきたわけですが、調べていくともっと面白いこともありますので。

ぜひ興味を持った方は書籍などを読んでいただきたいと思います。

三種の神器は古事記にも記された宝物で紆余曲折を経て現在に至っている。

<ちょこっと雑学タイム>

足利尊氏はもともと足利高氏だったけど、後醍醐天皇から尊の字をもらって尊氏になったらしい。

<キーワード>

三種の神器 古事記 天照大神 素戔嗚尊 邇邇芸命(天孫) 源平の争乱 壇ノ浦の合戦 二位尼 安徳天皇 源頼朝 源義経 源範頼 南北朝の争乱 大覚寺統 持明院統 後醍醐天皇 足利尊氏 三宝院賢俊

この記事ゆかりの地

伊勢神宮(内宮) 天皇の祖先神 天照大神をまつる神社                                      住所 三重県伊勢市宇治館町1

熱田神宮 三種の神器のひとつ草薙剣がある                                     住所 愛知県名古屋市熱田区神宮一丁目一番一号