□記紀神話の英雄 ヤマトタケル伝説□
- 倭健命とは何をした存在なのか?
- 日本書紀と古事記の記述の違い
- 倭健命は存在したのか?
ヤマトタケルとは?
倭健命とは景行天皇の息子で、古事記でも景行天皇の章にその名前が見えます。
大変勇猛な皇子として有名で、行った事績としてクマソタケルや出雲健の討伐を行った征西や、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)や草薙剣が有名な東征伝説などがあります。
最後は伊吹山の神に毒入りの雹を降らされ、現在の三重県あたりでなくなりました。(三重県の由来はヤマトタケルが足が3重に曲がったくらい疲れたことらしい。)
正直、倭健命だけでいくつも逸話があるくらいの存在なのですが、今回は倭健命がまだ小碓命(おうす)と呼ばれていたころの少し怖い話を紹介したいと思います。(倭健命の名は熊襲討伐の時にできた)
小碓命の兄は大碓命(おおうす)というのですが、その兄を自らの手で殺しているというのです。
以下本から抜粋します。
爾に天皇、小碓命に問ひ賜はく、「何ぞ汝(みまし)の兄(いろせ)、久しく参出でざる。若し未だ誨へず有りや」ととひたまひしかば、答へて白さく、「既にねぎつ」とまをしたまひき。 又、「如何にかねぎつる」と詔りたまひしかば、答へて白さく、「朝曙に厠に入りし時、待ち捕らへ搤み批ぎて、其の枝を引き闕きて、薦に裹みて投げ棄てつ」とまをしたまひき。 「古事記」 角川ソフィア文庫 武田友宏 著
以上の内容を簡単に意訳すると
天皇が小碓命に聞きました。「いまだにあなたの兄さんは顔を見せないんだけど。ちゃんと出てくるように言ったのか?」と。
すると小碓命は答えました。「はいもう言いました。」天皇はまた聞きました。「どうやって言ったのか?」すると小碓命は答えました。
「朝、トイレの前であいつが出てくるのを待ち構えて、とらえて押さえつけて、手足を引きちぎって薦に包んでそこらへんに捨てておきました。」と。
直接殺したとは書いていませんが、其の枝を引き闕きてのところなんていかにも恐ろしい状況が伝わってきます。
この後、父の景行天皇は恐ろしくなって倭健命を疎んじるようになります。結果的にしょっちゅう外征させられることになるのですが。それはこういう出来事がきっかけとなっていました。
では、どうして小碓命は大碓命を殺したのでしょうか、実はそれは父景行天皇のためだったといえる事情があったのです。
当時、景行天皇は美濃のほうに美しい姉妹がいると聞いたので、娶ろうと思い息子の大碓命を使いにやりました。
しかし、この大碓命がこの姉妹を気に入ってしまったのか自分の手元に置いてしまうのです。そして代わりのものを天皇のもとへは送らせました。
もちろん天皇はそんなことはお見通しです。天皇と大碓命の関係性は悪くなり、朝と夕のごはんに兄大碓命は顔を見せなくなりました。
とはいえ天皇は息子のことが心配なのか、朝と夕の食事には顔を見せるようにと兄に伝えよと小碓命に命じました。そして先ほどの会話になるのです。
倭健命の行動は兄を処罰できない景行天皇のことを思ってのことだったのでしょうか。
日本書紀と古事記の記述の違い
以上は古事記の記述ですが、日本書紀の記述は違います。兄大碓命は殺されたという記述はありません。
そして大碓命は美濃の豪族の祖という記述もあります。兄を殺したという記述は古事記のみの記述なのです。(また、日本書紀では日本武尊と書く)
ヤマトタケルは架空の人物?
倭健命は事績が多いことから複数の人物を合成した存在なのではないかという話があります。
また、話も神話的要素の多いことから架空の人物であるというのが歴史学者の中では定説となっているようです。
また先ほど日本書紀と古事記では記述が違うと書きましたが、古事記のほうが先に成立した話であるという風に考えられているらしいです。
常陸国風土記の記述にて
大和朝廷が命じて、各地の国造などに作らせた風土記という書があります。
残っているのは出雲、常陸、播磨、豊後、肥前の5か国のものが残っており、そのほかにも逸文としていくつか残っています。
そして今の茨城のことを書いた常陸国風土記の中に倭武天皇という名が見えます。これはヤマトタケルが天皇とみられていたということなのでしょうか?
詳しいことはわかりませんが、しかし記述があるということはそれとされる人が実際に来ていたということになります。
それとされる人がいたという真実味が増しますよね。
ヤマトタケルのモデルって?
先ほどいろんな人の話が混ざってヤマトタケルという人物が生まれたのではみたいなことを書きましたが、
この人がモデルなんじゃないか?とされている人物がいます。
その一人が雄略天皇だといわれています。昔の中国の歴史書である宋書には倭の五王という存在が書かれているのですが、
そのうちの一人が倭王武でこれは雄略天皇のことだとされています。
雄略天皇とは第21代の天皇で5世紀後半ごろ天皇として国を治めていたとされています。
こちらも勇猛な天皇で、モデルとされているというのは若干納得できます。
では最後にまとめをしたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。またよろしくお願いいたします。
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