称名念仏の祖、市聖、空也上人の生涯とは
南無阿弥陀仏と唱えることを称名念仏と言いますが、
それを記録上最初に実践したのが空也上人でした。
空也上人は延喜3年(903年)ころの生まれとされ、出生地は不明、
皇室の落胤(父親に認知されない子)とのうわさもあったそうですが、空也上人自身はその出自を自ら語ることはありませんでした。
空也上人は特定の宗派を作ることはなく、複数宗派の人と関わっていたとされています。
(活動拠点としていた六波羅蜜寺は現在、真言宗智山派に属しています。)
空也上人と言えば、六波羅蜜寺にある口から仏さまが出ている、あの仏像が有名ですよね。
JRのcmなどで紹介されて知っている人も多いと思います。
仏の教えがどちらかというと高級なものだった時代に、
民衆に向けてその教えを広めた偉大な僧でした。
そんな空也上人ですが、
どのような過程で僧になり、教えを広めていったのでしょうか。順に追っていきましょう。
尾張にて僧となり、空也と名乗る
延喜22年(922年)19歳の年に尾張国分寺にて出家し、空也と名乗りました。
奈良時代に聖武天皇のもとで国分寺建立の詔が出されて各国に国分寺と国分尼寺がおかれていましたが、
その中の一つ、尾張の国分寺で僧となった訳ですね。
そのころから南無阿弥陀仏と唱えて、社会事業などを行っていたそうです。
天暦2年(948年)45歳の年に比叡山で受戒します。(受戒とは戒律を授かることです。)
受戒することで正式な僧であると認められることになります。
そのあとは、金字大般若経の写経をしたり、四天王像などを制作したりしたそうです。
(大般若経とは正式には大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう)といい、西遊記で有名な玄奘三蔵が大乗仏教の基礎的教義が書かれている般若経典を集大成したものです。)
四天王像などは六波羅蜜寺に現存しています。
応和3年(963年)鴨川で大般若経の供養会を行ったりしました。
天禄3年(972年)現在の六波羅蜜寺にて示寂※します。(享年70歳)
※示寂(じじゃく)とは高僧が亡くなること。
民衆のために生きた一生だったと思います。
大乗仏教とは~広く人々を救済することを掲げる
仏教は今のネパールで生まれました。
仏陀、本名ゴータマ・シッダールタが説いた教えは
広いユーラシア大陸を伝わり、はるか東の島国、日本に到達しました。
その過程でいくつかの変遷を経ました。
大乗仏教は竜樹(ナーガールジュナ)によって体系化されましたが、
その教えは仏陀が最初に説いた教えとは変容していました。
初期の仏教は出家による自力救済を説いていたので、
民衆には手が出しづらい部分があったのです。
大乗という名は大きな乗り物という意味で、
出家に限らず、在家者も幅広く救済することを掲げていました。
(ちなみに初期仏教では偶像崇拝もNGでした、仏像も駄目だったんですね。)
大乗仏教の主な経典として、前述した般若経、法華経、浄土三部経、華厳経、などがあります。
広く人々を救済することを目的としたのが大乗仏教なのですね。
称名念仏とは
前述したように、称名念仏とは「南無阿弥陀仏」と唱えることですが、ここでいう念仏とは
歴史的に見れば、原始仏教の六随念や十随念の一つである仏随念のことを指します。
日本では平安時代の末期ごろ、末法思想が流行りますが、
称名念仏をすればお釈迦様の教えを理解できるといわれ、主流となりました。
末法思想とは、お釈迦様の入滅後(亡くなること)正しい教えが行われ、悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、正しい教えが行われるが、人々が悟らない時代(像法)がきて、その後正しい教えも伝わらない時代が来る(末法)という思想です。日本では1052年から末法の世に入ると信じられました。
また「仏説無量寿経」という経典があり、これは浄土教における重要なものなのですが、
そこにこのようなことが書かれているのです。それが、
設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法
意味としては、わたしが仏になるとき、全ての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと心から願いわずか10回でも念仏して、もし生れることができないのであれば、わたしは決して悟りをひかない。但し、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除く
というようなものです。
これは法蔵菩薩の誓願「四十八願」のうちのひとつ、十八願の内容です。
菩薩が修行中にたてたこのような誓願を本願と言います。
本願寺の本願ですね。
菩薩とは、仏となるため修行しているものを言います。
そして法蔵菩薩は無事、願いをかなえて阿弥陀如来となることができたので
阿弥陀仏を信じて念仏を唱えれば阿弥陀如来のいる極楽浄土に
生まれることができると信じられたのです。
極楽浄土はすばらしい世界だとされて、昔の人はそこに生まれ変わりたいと願いました。
それが、称名念仏が流行った理由だったのでしょう。
六波羅蜜寺の空也上人像
六波羅蜜寺の木造空也上人立像は国の重要文化財に指定されています。
そのほかにも京都の月輪寺などに空也上人の像があります。
口から仏像が出ているあの印象的な姿で記憶されている方も多いと思います。
空也上人の唱える言葉が、仏にかわったという伝承をもとに作られています。
姿は涙ぐましいほど簡素なもので、市聖(いちのひじり)と呼ばれた空也上人のイメージそのものです。
ちなみに杖についている鹿の角にはエピソードがあります。
その鹿は空也上人の可愛がっていた鹿だったというのです。
なんとその鹿は猟師に殺されてしまいました。
嘆き悲しんだ空也上人は鹿の角や川をもらい受け、角を杖につけて生涯はなさなかったそうです。
鹿を殺した猟師も大変後悔して空也上人の弟子になったそうです。
鹿の角にまつわるエピソードでした。
絶えず空也上人の目は民衆に向いていたと思います。
簡単に大乗仏教の歴史を紹介させていただきましたが、
空也上人の姿勢はすべての人を余すことなく救う、大乗仏教の教えに沿ったものだったと思います。
仏の教えを全身で実践して生きたのが空也上人だったのですね。
まとめ
日本の称名念仏のパイオニア、空也上人を紹介させていただきました。
お読みいただきありがとうございました。